2016/02/11: 南品川散歩;木瓜爺撮歩94-54-1 龍吟山 瑞林院 海雲寺 〔品川千体荒神王〕 (No.2592)

「京急線 青物横丁駅」を出て来ました。まずお詫びしないといけないのは、最初に行くべきお寺は、駅の南南西にある「海晏(かいあん)寺」でしたのに、「海晏寺の塔頭」であった「海雲寺」に引きつけられてしまったことです。其の理由は、写真で説明します。この失敗の為に、南品川散歩がますます続いてしまうことになります。

m94-54- 01  青物横丁駅

改札を出たところにあった地図。「品川寺」と「海雲寺」が並んでいます。この地図には「海晏寺」は出ていないので、頭から抜けてしまいました。「左上のはずれ」た所にあるのです。そして、左手をみあげると・・・

m94-54- 02 海雲寺

立派な塔が見えます。

m94-54- 03 海雲寺

お堂も見えていますが、この門からは入れないようです。東(右手)の方から、回り込むようです。ちょっと進むと、南北に走る道路に出ました。・・品川宿を抜けてきた古東海道のようです。角に道標が立っています。

m94-54- 05 海雲寺

m94-54- 04 海雲寺

「十四番 千躰荒神 南」と書かれています。つまり、北側に「千躰荒神」があると云うことなのですが、Choi-Bokeを発揮して、南向いて歩き出しました。暫くして、誤解に気付き、逆戻り。全く呆け爺さんは世話が焼けます。m94-54- 07  海雲寺

この「千躰荒神」というのは、「海雲寺」にある「千躰荒神堂」の事だったのです。m94-54- 08  海雲寺「品川 千躰三宝荒神」というホームページが出来て居ますので、それをメインとして紹介して参りましょう。石碑の文字が読みにくいですね。拡大しましょう。「開運 千體荒神王霊場」と書かれています。

「新編武蔵風土記稿」では、「海雲寺」の中にある「荒神社」として書かれています。ホームページの説明です。『古くからお台所に荒神様をお祀りする習わしがあります。荒神様は台所で一番大切な火と水をお守り下さる神様であります。それでお台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされています。
品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてまいりました。今を去る三百七十余年前、島原の乱に鍋島甲斐守直澄公がお年十八歳で出陣の折、天草の荒神が原にありました荒神様にお詣でになり必勝祈願なさったところ、甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れその行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思われるすさまじさ。流石の暴徒も敵し得ず鎮定されました。以後鍋島家ではこの尊像を守護なさいまして東都高輪二本榎木の屋敷に遷座し篤い信心のもとにお祀りしてありました。
因縁あって明和七年寅三月に当山に勧請し奉ったものであります。それからはあらゆる多くの人々の参詣するところとなり、ついには当寺の春秋大祭は江戸年中行事の一つにもなりました。この尊像を信仰する人々の受けました霊験利益は数えきれないものがあります。』

m94-54- 09  海雲寺

m94-54- 10  海雲寺山門の額は「海雲寺」。でも、知らなきゃ読めないなあ・・特に「雲」は分からないですねえ・・・HPの、「海雲寺」の方の説明はこうなっていました。『雲寺の沿革
禅、曹洞宗、龍吟山海雲寺は建長3年(1251)僧不山(そうふざん)によって開基、はじめは庵瑞林(あんずいりん)といい、海晏寺(かいあんじ)境内にあって臨済宗であった。慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕大和尚を開山とし曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺になったもので、ご本尊十一面観世音菩薩を安置し、ご尊像は建長3年創立当時、仏師春日の作といわれている。また、鎮守として千躰三宝大荒神王を祀る。』

「海」がなくなって「雲寺」になっている理由はわかりません。「庵瑞林」という名で「海晏寺」の一部だったと言うことです。この本堂の写真は、説明をコピーしたらくっついてきました。

m94-54- 11  海雲寺

山門をくぐると、まず、こういう一群が目に入ります。立て看板を見ると。「平蔵地蔵」とあります。平蔵って「長谷川平蔵?」では無いようですね。なになに?

m94-54- 12  海雲寺

『江戸末期の1860年頃、鈴ヶ森処刑場の番人で乞食をしていた三人がいた。その一人「平蔵」は、或る日多額の金を拾い、落とし主を探して届け、お礼の小判も断った。
その事を知った仲間が、「山分けすれば乞食を廃業できた」と腹を立て、平蔵を殴り乞食宿を追い出し凍死させた。
これを聞いた落とし主である仙台屋敷に住む若侍は哀れに思い、平蔵の遺体を引き取って手厚く葬り、青物横丁の松並木の所に地蔵尊を立てねんごろに供養したという。明治32年、京急電鉄が開通した時、その場所が線路に掛かったことから、時の海雲寺住職が境内に移し回向した』なんとも、哀れな話ですね。お礼の小判を貰って、仲間に大盤振る舞いをしておくべきだったのでしょうか? 仏様どう考えます?

もう一つの明王様が面白いですね。「電灯明王」でしょうか? 奉納したのが、「電灯m94-54- 14  海雲寺講」だそうですから。

面白がっているのは、木瓜爺だけらしく、「海雲寺」「千体荒神」訪問ブログには殆ど出て来ません。これ明かりがつくのじゃないのかなあ?「灯杖」を持った明王など、そうざらにはいないと思うのですけど。

簡単に「不動様」と書きたいのですが、実はこの前に、「烏瑟沙摩明王堂」が、有るのです。「うすさまみょうおう」というのは、古代インド神話で、元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神。「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとするのです。「火の明王」なので、この像も「灯の明王」として、「烏瑟沙摩明王」をアレンジされたのかも知れません。

m94-54- 16  海雲寺

これが、そのお堂でして、尊像も拝めます。こういうポーズでした。

m94-54- 17  海雲寺

片足を曲げて駆虫に腰掛けて?おられるようですが、左右の差はあるけど、持ち物は先ほどの像に似ているでしょう? 荒神堂に着く前に、腕が疲れてしまいました。後半は明日にします。

広告
カテゴリー: 寺社, 散歩, 伝説 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中