2016/02/14: 南品川散歩;木瓜爺撮歩94-55-2 海照山 普門院 品川寺 (No.2595)

鐘楼は、左に見えました。この鐘楼の鐘も数奇な運命をたどったようです。品川観光協会の記事にはこう書かれています。『○梵鐘「洋行帰りの鐘」/ジュネーヴとの交流

・慶応3年(1867)にパリ万国博覧会に出品されたが、日本に返される途中で行方不明となる。のちに、スイス・ジュネーヴのアリアナ博物館にあることがわかり、昭和5年(1930)に返還された。
・これをきっかけに品川区とジュネーヴ市は、平成3年(1991年)友好都市提携を結んだ。』

m94-55- 19 品川寺鐘楼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在は、周りの柵が厳重になっていて、あまり接近出来ないようなので、周囲を観察。この一画に「七福神」があるようです。草の陰でよく見えないものもありました。

m94-55- 20 品川寺

m94-55- 21 品川寺m94-55- 22 品川寺

m94-55- 23 品川寺

m94-55- 24 品川寺

そして、この横に、「弁天堂」らしきものも建っています。「新編武蔵風土記稿」を見ると、こう書かれていました。『天神辨天稲荷合社 本堂の北にあり小祠』。これとはすっかり変わっていて、立派なお堂です。場所も本堂の南ですね。

m94-55- 33 品川寺

m94-55- 34 品川寺

主神はご覧のとおり、これは「辨天様」だと思います。ただ、他にもいくつか仏像が祀られていました。例えば、これは「観音様」、前には「阿弥陀様」のようですね。

m94-55- 35 品川寺いよいよ、「本堂」というか「観音堂」というか、本尊様のおられる建物に参ります。

m94-55- 26 品川寺

ちょっと暗いのです。「海照山」の額がかかっています。ただ、「海」ではなくて「懐」に見えるのですが・・・品川寺のホームページの「縁m94-55- 27 品川寺起」には、こんなお話も書かれています。『本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人(774年~835年)が東日本を教え、導いた時、この地の領主、品河(しなかわ)に授け、以来、応永2年(1395年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられました。同年、足利・上杉の合戦(上杉禅秀の乱)で品河一族は滅び、それ以後は、草堂に安置され「観音堂」と称され、町の人々の信仰を集めてきました。その後、太田道灌が、この地に勢力を伸ばすと、道灌は「水月観音」を信仰し、あわせて自分の持仏である「聖観音」をここに移し安置しました。そして、長禄元年1457年)道灌は、江戸城を築き、城に移るとき、この地に伽藍を建立し、「観音堂」を「金華山普門院大円寺(きんかざん・ふもんいん・だいえんじ)と号しました。
不幸にも、永禄9年(1566年)、甲州の武田信玄が小田原の北条氏政を攻めたとき、北条氏の支配下にあった品川一帯は、焼き払われ、観音堂も焼かれ、「水月観音」像は、甲州に持ち出されました。しかし、持ち帰った二人の武士は、まもなく発狂し、それを聞いた信玄は、一人の「聖山伏に頼み、水月観音像を品川の観音堂の地に持ち帰えらせ、草堂を造り、安置させました。』

m94-55- 28 品川寺

一番奥にかすかに観音像が拝めます。HPの縁起はまだまだ続きます。『江戸時代に入ると、山形県の僧、弘尊上人が、この草堂に住持し、「水月観音」像を奉持、寛文元年(1652年)四代将軍・徳川家綱公により寺領4800坪を拝領し、太田一族の外護のもと、一大伽藍を建立し、寺号を「金華山普門院品川寺(きんかざん・ふもんいん・ほんせんじ)」と改めました。後に山号は「海照山(かいしょうざん)」となり、太田摂津守(おおたせっつのかみ)も、寺領を寄進し、以来、太田備中守(おおたびちゅうのかみ)、松平讃岐守(まつだいらさぬきのかみ)、松平阿波守(まつだいらあわのかみ)の三家の外護を受け、お寺は大きく栄えました。』

先ほどの梵鐘のことも書かれていました。『この間、明暦3年(1657年)9月18日には、弘尊上人の発願により、徳川三代の将軍、家康(いえやす)・秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)の供養のために大梵鐘が、京都三条の鋳物師(いものし)・大西五郎左衛門(おおにしごろうざえもん)により、鋳造され、四代将軍・徳川家綱によって寄進されました。この大梵鐘は、徳川三代の将軍の号、東照宮(とうしょうぐう)、台徳院殿(だいとくいんでん)、大猷院殿(だいゆういんでん)と、京都七条の大仏師・康斎(こうさい)による6体の観音像が浮き彫りにされ、さらに、観音経一巻が陰刻されており、「武蔵風土記(むさしふどき)」、「江戸名所図絵(えどめいしょずえ)」には『世にもまれなる梵鐘』と記されている銘鐘です。』

m94-55- 29 品川寺  詳しくは、HPの方でお読み下さい。これらの記述は「新編武蔵風土記稿」に書かれていることとほぼ同じようです。

お堂の中には、観音様の絵姿も何枚か飾ってあります。m94-55- 31 品川寺

観音様を拝んで、本堂の脇に目をやると、役行者がおられました。これも銅像でしょうね。

そう言えば「水月観音」そのものの由来がみあたらないなあ? 「水月観音は竜宮出現の像と伝えてられている」というのですが、それがどういうお話だったか? 基本的には、「水月観音」というのは、いわゆる変化観音の形の一つで『補陀落山(ふだらくせん)の水辺の岩上に座し、水面の月を眺めている姿の観音 』と云われていますが・・。

「新編武蔵風土記稿」を見直しましたところ、こう書かれていました。『水月観音は竜宮出現の像にて尤も霊験あり 或説に水月観音は弘法大師の持仏 閻浮壇金もて造る所 海中出現の像なり・・・』 よく分かりませんが、普通の水月観音と居場所が違うのでしょうか?

こんな所で、「品川寺」を辞しまして、北の方に行きます。「天妙国寺」目的地ですが、地図を見ると、周辺にいくつかのお寺と「諏方神社」という変な名前の神社があるので、それらを探索した上で「天妙国寺」に行きたいと思っています。おっと、門前の「宝筺印塔」の写真を入れ忘れていました。亀に乗った塔でした。

m94-55- 36 宝筺印塔

広告
カテゴリー: 寺社, 散歩 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中