2016/02/22: 池之端散歩;木瓜爺撮歩70-13 〔浄土真宗〕福成寺と高承山 教證寺 (No.2603)

千代田線「湯島駅」についた木瓜爺、湯島天神に向かう前に、区界を越えて台東区に侵m70-13-01 F9727入しました。地図の上で「福成寺本堂」と書かれているのが気に成ったのです。「天神下」の交差点から、「旧岩崎庭園」への道を少し入ります。m70-13-02 F9731

 

 

 

コンクリートだらけの町に、こんな木造住宅も残っているのが、何か不思議な感じがします。この道をずっと進むと、「旧岩崎家庭園」が「公園」になっています。

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今日はそこまでは行きません。ずっと手前に、「福成寺」がありました。

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こうなると、もうお寺に見えない木瓜爺です。つい通り過ぎてしまうのですが、今日は注意して歩いております。「浄土真宗 大谷派」のお寺です。 「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの寺院・神社は殆ど書かれていないのですが、「御符内寺社備考」という記録が有ります。「御符内」とは、m70-13-05 F9733『江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域。文政元年(1818)、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められた。 』と解説されています。この「御符内」については、「新編御符内風土記」を造ることが計画されますが、完成せず、下調べメモの一部が「御符内寺社備考」になっているようです。ですから、「新編武蔵風土記稿」に収録されてない場所が「御符内寺社備考」にはあるという事が生まれたようです。

その「御符内寺社備考」による福成寺縁起では、『東本願寺末 池之端仲町 福成寺 境内古跡拝領地112余坪持漆地45坪余合157坪。慶長年中武州豊島郡江戸神田ニ住居相定申候。然ル処二代目了円之代ニ寛永2年下谷仲町ヘ転地起立仕候。
開山了意。三州加茂郡西尾権守と申武門ニ而御座候。然所本山13代目宣如上人関東御経m70-13-06 F9734過廻之砌帰依仕、御弟子ニ相成、法名を了意と賜る。承応元年3月26日卒去。
中興了円法師。』と書かれていると、「猫の足あと」に記載されていました。

「本堂」の周辺は、ご覧のような墓碑に囲まれています。「浄土真宗」ですから、「南無阿弥陀仏」と書かれた墓碑がかなりあります。最近認識したのですが、浄土真宗の僧になる道の一つにもなる「大学」は、西と東(本願寺のこと)、やはり別にあるのですね。西本願寺系が「龍谷大」、大谷派の東本願寺系は「大谷大」なのです。他にも沢山ありますが、一番有名らしい所を代表にかきました。

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先の方をみると、お寺の塀らしい塀がずっと続いています。墓地なのでしょうが、何となく他にもお寺があるような気配です。地図には出ていないのですが、少し探索してみました。すると、やはり、もう一つお寺が見つかりました。

小さな表札ですが、「真宗 教證寺」と書かれています。こちらも、同じ「大谷派」寺院でした。

m70-13-08 F9737教證寺

こちらは、山号があるようで、「高承山」だそうです。寺名の方が「教證寺」なのか「教証寺」なのか、ちょっと分かりかねるのです。「表札」は「教證寺」です。ところが、「猫の足あと」さんは一貫して「教証寺」と書いています。他のサイトはどうなっているか? 一つ見つかりましたが、「谷中・桜木・上野公園」という公開サイト。コピーしても良いと書かれているので、利用させて頂きます。

教証寺/教證寺(きょうしょうじ)      創建;寛文7年(1667)
場所:台東区池之端2-1-5
アクセス: 地下鉄湯島駅より不忍池側口を出て春日通りを西へ、すぐ右に折れて進むと、右側。または、東天紅隣りのゴルフ練習場の横の道に入り、次の小さい交差点を左に行き、旧岩崎邸園を過ぎて左側。
真宗大谷派。高承山。慶長元年(1596)京都本願寺第12世教如上人(きょうにょしょうにん)により伊勢桑名に本統寺を創建(初めから本統寺と呼ばれたわけではない)。開基(初めの責任者)は、同上人の娘長姫(おさひめ、のちの教証院)。この寺が起源となる。慶長6年(1602)長姫9歳にして寺務職となる(それまでは無住職だった)。それまで住職の名で呼ばれていたのを慶安2年(1649)に本統寺と改名。長姫は、約4年間勤めたのち京都に移り、結婚して2子を設ける。のち離婚し、子供たちは独立する。甥の宣慧上人(せんえしょうにん)を養子としたが、幼少のため再び桑名に戻り、小松の勧帰寺から迎えた玄誓(げんせい)と共に本統寺の寺務職を数年間手伝う。晩年、長男公海上人(こうかいしょうにん)を頼り江戸池之端(教証寺のある場所)の隠室に約12年住むが、宣慧上人が病となり、桑名行って看病する。しかし宣慧上人は、22歳で逝去。それから約半年の後、寛永20年(1643)12月17日に教証院殿は56歳で没し、隠室の地を菩提とする。その後、寛文7年(1667)12月17日の25回忌の折に教証院殿の号を寺号とした。
前置きが長くなったが、旧岩崎庭園のほぼ向かい側にあり、さほど広くない庭は良く手入れされていて清潔感がある。山門には、台東区教育委員会が作った「柳瀬方塾」墓の説明板が掲示されている。山門を入り直ぐ右に都史跡である「柳瀬隠口墓」と書かれた石柱がある。』 なんと、両方の文字が使われています。どちらでも良いらしい?

m70-13-09 F9738開基者が「教証院殿」なのですか・・「猫の足あと」に書かれた「御符内寺社備考」を写します。読むのは飽きてしまいますね。「徳川忠長に嫁いだ教証院殿(長姫)」の物語になっています。「徳川忠長」といえば、「三代将軍家光」の弟「国千代」、いろいろ悲劇がありまして、30才前に切腹に追い込まれてしまったのです。「長姫」も哀れな生涯になってしまいました。

『御府内寺社備考による教証寺の縁起:  東本願寺末 下谷茅町
高承山教証寺 境内拝領地157坪。当寺由緒者慶長元年勢州桑名ニ於て本統寺建立。教証院殿幼名長姫御方9歳之時桑名ニ下向。女儀ニ候得共寺務代致候。暫ク在住ニ而慶長4年12才ニ而し帰京。同8年16才之時、花山院左少将忠長卿ヘ御入嫁。同12年12月12日久遠寿院殿御誕生。同14年忠長卿7月4日故在而、後陽成院帝蒙勅勘、11月8日松前ヘ流罪被仰付候。依而長姫御方、久遠寿院殿3才之時御伴ひ、里方本願寺ニ後帰住。其後元和6年南光坊天海大僧正本願寺ニ入来有之。久遠寿殿14才之時御乞被成、同9年駿府惣持院ニ而御得度有之。寛永元年東叡山を開山、常に被為住候。長姫君御実子東叡山ニ被為在候故、寛永9年12御弟宣如御門跡御同道御下向。然ル処御女儀之御事故上野に難被為住思召、不忍池の辺御隠室を造らせ御居住有之候。然るに長姫君12年御在府被遊候処、慶長之比桑名に御在住、本統寺を被為続候。寿量院宣恵連枝、7月之始御病気之儀申来候故、無拠桑名ヘ被為登候処に、初冬の頃より御発病にて寛永2年12月17日56才にて卒去。本統寺御墓御座候。江戸下谷池之端御隠室の地へ為御菩提、慈眼大師之養甥敬念寺了円と申者ヘ被仰付、中陰法事専行仕候。其後寛文七年12月17日教証院殿25回忌被為当候ニ付、山科より久遠寿院殿本願寺へ御入来。啄如御門跡ヘ被遊御頼候て、敬念寺了円来御法会相勤候ニ付、教証院殿之号を寺号に相改、二代目寺務被仰付候。本願寺の御一家余間席ヘ被召加候。元禄八年久遠寿殿三宮殿八十九才ニ而山科毘沙門堂にて十月十六日御遷化。同十年准三宮殿御三回忌に付、大明院様より本山一如御門跡ヘ御頼被仰入、院家御取立、教証寺三代目了覚蒙仰候。』

「御符内寺社備考」にも「教証院殿」の号を、寺名にしたと書かれていますが、どこかで文字が変わったのでしょう。ただ、先日「新編武蔵風土記稿」の文字を猫さんが珍しく読み取り間違い(若しくは入力時の間違い)をされていた事がありましたので、「御符内寺社備考」の原文をどこかで見る事ができましたら一応確認してみたいと思います。

墓地の散歩はあまり好きではないので、ここで探索終了。踵を返して、「湯島天神」に向かいました。それが、撮歩77-13-1, –2 だったわけです。

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さて、明日は「湯島天満宮」のすぐ下にある、「湯島聖天」にお邪魔します。撮歩25-10ということに成りそうです。

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