2016/02/23: 湯島散歩;木瓜爺撮歩25-10 〔湯島聖天〕 柳井堂 心城院 (No.2604)

「湯島天満宮」を書いた時に、その境内図を、入れ忘れたような気がします。ダブっているかも知れませんが、説明の都合上再度使用します。

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この図の右中央あたりに目を向けてください。「女坂」「男坂」が分かりますか? 湯島天神の正門はここに有ったのです。そして、「男坂」「女坂」で造る直角部分の角に「天台宗 喜見院」がありました。その「喜見院」は、神仏分離などで「廃寺」に成りますが、一部分が残り、「柳井堂 心城院」として存続しています。その辺の所を、心城院のホームページで読みましょう。

『当山は元々、湯島天神の別当寺であった天台宗喜見院の「宝珠弁財天堂」と称されていました。ときに元禄7(1694)年、喜見院第三世・宥海大僧都が、道真公とご縁の深い歓喜天(聖天さま)を弁財天堂に奉安したのが当山の開基で、尊像は比叡山から勧請した慈覚大師円仁作と伝えられております。当時は、現在の湯島天神男坂下が湯島天神の表門にあたり、太田道灌の御殿・皓月亭跡とも伝えられています。享保のころ、寺門維持のため幕府から「富くじ」が発行されました。江戸では、谷中感応寺(現・天王寺)、目黒瀧泉寺(目黒不動)、喜見院(湯島天神)が「江戸の三富」と言われ、大いに賑わいました。

当時の喜見院はかなりの境域がありましたが、明治維新の神仏分離令で惜しくも廃寺となりました。当然、弁財天堂もその影響を受けるところでしたが、聖天さまの御加護により湯島天神との本末関係を断つのみで、奇跡的に廃仏の難を逃れました。
単独の寺院として歩み出した当山は、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を「心城院」と改めました。』

さて、木瓜爺、湯島天満宮の男坂上におります。ここで「新派」という石碑を見つけました。脇に説明板もついています。

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この浮き彫りは読みやすいですね。流石に演劇の世界の方は、如何にして観客に知らせるかをよくご存じのようです。新橋演舞場の前にあった碑を、演舞場改築のときにここに移したと書かれています。

m25-10-03 F9828男坂

「男坂」を見下ろしています。「女坂」は同じ場所の左手にあります。赤い幟が並んでいる所が、「心城院」なのです。この「心城院」江戸時代の記録としては、明治の初期に書かれた「東京名所図会」にあるようで、「猫の足あと」さんが収録されています。『心城院: 心城院は。天神町二丁目十八番地天神男坂下にあり。天台宗なり。門を入り表面に堂あり大聖歓喜天を祠る。堂の軒には大聖歓喜天と書したる提灯を數多連たり。其前に直径四尺餘の鐵製の水盤あり。右に三坪餘の地あり。江戸砂子にも、寶殊瓣才天社男坂下とあり。本院はもと瓣才天を祭り其後に歓喜天を祀りたるにや詳ならず。
新編江戸志に江戸砂子を引て云ふ。此所の池は長井實盛の庭前の池と云傳ふ。むかしは餘ほどの池なりしが。近来其形のみすこしばかり有り。或説云。長井實盛の宅は江戸に非ず。今中山道の内熊谷の邊なりとなほ尋ぬべし。
一説云。太田道灌の遊亭は皓月亭といへるも此所なり。其時の池是なりと。(東京名所図会より)』

要約すると、「最初は辨財天を祀っていたが、そこに大自在天(歓喜天)を祀るようになり、「湯島聖天」として賑わった」ということのようです。

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では、坂を下ります・・・と、坂下に「地蔵堂」がありました。

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「復興地蔵尊由来」の板書きがついています。「関東大震災」で亡くなられた方々の供養の為に建てられたものですが、更に「戦災の焼け野原」からの「復興」を願って祀られた地蔵様です。

そして、「心城院」の幟・・文字が裏返しに写っているので、画像ソフトでひっくり返します。これなら、m25-10-06 F9833読めるでしょう。観音霊場としての「十一面観音」と「歓喜天」の両方が書かれています。「辨天様」は旗色が悪そうです。m25-10-07 F9834

 

 

 

 

 

門を入ると、右手に小さな池があります。

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m25-10-14 F9852ここには、もう少し立派な池があったのですが、都市化によって涸れてしまい、人工的な心字池を造ったと書かれています。

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これは、「湯島聖天」の由来ですが、冒頭に書いたホームページの記事と同様なことが書かれています。

m25-10-09 F9841お堂の前に、現代風地蔵と、墓碑型の八体の地蔵、そして神社が置かれていました。五体写っていますが、四体は向き合って並んでいます。数から云っても形から云っても、六道地蔵ではありません。

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神社の方は、辨天様なのか? お稲荷さんなのか? 判然としません。ホームページを参照すると、「八体地蔵」と、「吒枳尼天社」と成っていました。つまり、稲荷社ですが、豊川稲荷系の祭神です。

お堂の方は、ガラス越しに内部が観察出来ます。とにかく、お参りをしてから、覗かせて頂きます。

 

m25-10-16 F9855本尊は「歓喜天」「十一面観音」が主役、脇役に「寶珠辨財天」「大黒天」が祀られているようです。

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「十一面観音」は、堂内に写真が掲示されていました。ホームページの方では、堂内に置かれた「宝珠弁財天」と「出世大黒天」の写真を見る事ができます。辨財天は『江戸三十三ヶ所弁財天(江府三十三所弁財天縁起霊蹟誌より)、江戸百弁天(東都歳時記より)の一つ。八臂の弁天様で、学業成就・芸事上達・金運などをもたらしてくださいます。』「出世大黑天」は『商売繁盛・開運招福などをもたらしてくださいます。』とだけ書かれていました。

m25-10-15 F9854木瓜爺が見落としてしまったらしいのですが、以前にこちらにお参りされた方のブログを拝見すると、「門を入ると、左手には水琴窟。聴き竹に耳を当てながら、柄杓で水を落とすとミラクルな音が頭蓋骨をかけめぐります。」と書かれていました。木瓜爺は、こちらの表示に気を取られてしまったのかも知れません。

では、こんな所で、「湯島聖天」を辞して、次に向かいます。・・・と書いたところで、新しい資料を見つけてしまいました。「天台宗東京教区」の頁です。ここに、いくつかの理解を進める説明が有りましたので、抜き書き追加しておきます。

1.なぜ天神様の所に歓喜天を祀ったのか? 『道真公が太宰府へ左遷されたとき、その冤罪をそそぐため聖天さま(大聖歓喜天・大聖歓喜自在天)に祈念され、その信仰が篤かったために「天満大自在天神」とも言われました。ときに江戸の元禄七(1694)年、喜見院第三世宥海大僧都が、道真公と因縁浅からざる聖天さまを堂内に奉安したのが当山の開基で、尊像は比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられています。開基以来、「湯島の聖天さま」として知られ、熱心な信者の参詣があり、紀伊国屋文左衛門も当山に帰依した一人でした。』

2.「柳井堂」の意味は? 『当山には江戸名水の一つ「柳の井戸」があることから「柳井堂」と称され、これについて江戸時代の文献(江戸砂子・御府内備考など)に次のようにあります。 柳の井 男坂下
「この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり」 とあり、美髪・厄除のご利益を求め日々参拝者が訪れています。』

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