2016/02/28:南品川散歩;木瓜爺撮歩94-59-2 補陀落山 海晏寺 (No.2609)

「補陀落」というのは、ほだらく とか ふだらく とか読みますが、ボータラカとかpotalaka ともいい、南インドにあるとされる「観世音菩薩の霊場」の名前です。鮫の腹からでてきた観音様を祀るので、こういう山名にしたのでしょう。この「海晏寺」は、江戸時代は「紅葉の名所」だったようです。『あれ見やしゃんせ 海晏寺、真間(まま)や高雄(たかお)や竜田(たった)でも、及ぶまいぞえ 紅葉狩り』という江戸端唄があったそうです。真間というのは、市川市のほうにある「弘法寺」の紅葉、高雄や竜田は京都・奈良の紅葉の名所ですね。それらよりも、海晏寺の方が上だと言うのですから、相当なものです。

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山門を入ります。

m94-59-13 F2454左に鐘楼、正面に本堂、その間に六角堂のようなものがちょっと見えます。右の方には庫裡などが並んでいるようです。境内は広場の感じ。昨日、「新編武蔵風土記稿」で紹介しましたが、読みにくいという声が聞こえて来たので(?)、「品川区文化財」の記述をコピーさせて頂きましょう。昨日記載をした後の方も含めて、要約されています。『建長3年(1251)の頃品川の海上に大鮫の死体が浮上がったのを、漁夫が取上げてその腹を割いたところ、中から正観音の木像を取出した。人々は不思議に思い門前を鮫洲と唱える様になったと伝えている。当時鎌倉執権北条時頼はこのことをきいて、珍しいことがあるものと一宇を建立し正観音像を安置した。南北40町余、東西10町余の寺域を与え、土木の工事が成って建長寺開山大覚禅師をむかえ開山として寺領100貫の地を寄附し、別に80貫文の地を与えて寺中に4院2庵及び堂宇2ヶ所等を建てた。又弘安の頃相模守平時宗はあらたに堂を作り、所持の阿弥陀像を安置し、供養料20貫文の地を寄附する。其後関東は荒廃し、堂宇も又兵火によって焼失し什宝ことごとくを失うのである。其後再造の事もあったがわずかに10分の1にすぎなかった。天正18年徳川氏入国の頃僧慶存を三河から召連れ、衰廃した寺を再興し、文禄2年(1593)本多佐渡守正信に命じて住持に定められた。この時に曹洞宗系単立に改宗して中興開山となった。
当寺の境内には昔から楓樹が多く、元禄頃から紅葉の名所となり、時季になると文人墨客が集まり境内に宴をはって遊山の酒に帰るのを忘れる程であったと云う。当時の俗謡に「あれ見やしゃんせ海晏寺、真間や高尾や竜田でも、及びないぞえ紅葉狩り」と云うのが流行したと云われる。』

ちょっと怪しい記述になっているのは、文禄2年に「曹洞宗単立系」になったと言う部分です。「単立系」という言葉が出来たのは、近年のことじゃないかと思うのですが?つまり、宗教法人の制度が出来てから、確立した概念ではないのだろうか? です。
この記述によると、臨済宗だった「海晏寺」が曹洞宗になったのは、文禄2年(1593)からだと云うことです。「本多佐渡」が住職を決めたというのは、何か勢力争いと関係しているのかな?

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m94-59-15 F2456本堂は新しいものです。昭和の建物でしょうか。禅寺らしいすっきりした形です。額は「海妟禅師」です。本尊は「正観音」でしょう。まず、お参りして・・・こちらの鐘楼は、屋根に鬼瓦が乗っています。この写真を撮している時は、まだ気付いていなかったのですが、鐘楼の横あたりから、このお寺のすごさを感じされるものを沢山目にすることになります。m94-59-16 F2457

もう一つのお堂の方を先に片付け?ましょう。説明はないのですが、大勢の方の供養塔のようなのです。というのは、「倶會一処と石碑に記されています。「倶會一処は、阿弥陀経で、死後、浄土に往生すると、凡夫も聖者たちとひと所に暮らせること。 また、この世で死ぬのは別々でも、浄土で再び会する意にも解される。( 大辞林)」 集合墓碑に刻まれることが多い文字です。お堂の名前が「牢光堂」。罪人を連想しますが、そうとは限りません。戦没者慰霊塔などの場合もあります。ただ、ここは「鈴ヶ森」(江戸時代の刑場)にも近いので、そういう意味もあったのかもしれません。m94-59-17 F2459

では、鐘楼の脇に行きます。歌碑なども建っているようです。そうそう、このお寺の墓所に眠る有名人の筆頭は「岩倉具視」でしょうか。ただし、そのお墓までは公開されていません。『岩倉具視(1825~83)<東京都指定旧跡>
幕末・維新期の公卿・政治家。公武合体論を唱え、大久保利通らとともに王政復古を実現させた。維新後は廃藩置県、条約改正の交渉などに活躍、富国強兵政策に努めた。
*一般の参拝は認められていない。』と成っていました。

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『白井鳥酔(1701~69)<東京都指定旧跡> 江戸時代中期の俳人。天明俳諧の中興の先駆をなした蕉門の巨匠と呼ばれた。 墓碑に「松風の骨になつたる寒さかな」の句を記す。』というのが、この付近にあるらしいのですが、どれがそうなのか分かりませんでした。

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昨日の「新編武蔵風土記稿」によると、境内に沢山の神社もあったようですが、本堂の後ろの方が小高い丘になっていまして、その山の上あたりに建てられていたようです。現在は殆ど無くなっているらしく、墓地になっていました。この辨財天石碑などは、往時の名残かもしれません。右は何と読むのかなあ?「**山元大菩薩」?「仙元大菩薩」ですと、木花咲耶姫命で「女人守護」なのですが・・・

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「河津桜」らしいのが咲いています。

このあと、木瓜爺が魅せられた「石佛」写真が並びますが、ブログ仕立てにすると、もう一日分ほどありますので、興味の無い方は、眺めるのを打ち切ってください。明日は、「泊船寺」(ちょっと字が違うかな?)に行きます。

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m94-59-28 F2477閻魔

右上の「享保六年」の観音様は馬頭観音でしょうか? なんという優しいお顔をされているのか・・右下は「閻魔大王」ですよね。まだまだ有ります。
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砲弾まで並んでいます。そして、墓地入口の塀に沿って、何体あるのか・・・

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痛んでいる物が少ないのです。ここに一つ首もげがありました。まだまだあるのですが、この辺でやめておきます。木瓜爺、長い時間、石仏と話をしていたのですが、そろそろ出発します。

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