2016/04/09: 羽村漫歩;木瓜爺撮歩73-39 東谷山禅林寺の花祭り(灌仏会) (No.2650)

昨日は、お釈迦様の誕生日でした。釈迦の生誕を祝う行事は「灌仏会(かんぶつえ)」「仏誕会(ぶつたんえ)」「仏生会(ぶつしょうえ)」など、いろいろな呼び方がありますが、簡単に「花祭り」と呼ばれることも多いでしょう。ただ、桜の里の場合は、「花祭り」では、「桜花のお祭」という風に感じてしまうので、木瓜爺は「灌仏会」の表現を使うことが多いようです。

「ちょっと甘茶飲んでくるよ・・」と、忙しい時間を割いて、木瓜爺は「東谷山 禅林寺」にやってきました。

m73-39-01 F0181禅林寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このお寺、歴史的に、ちょっと不思議なことがあるお寺なので、今日はそこを書いておきましょう。まず、門前の説明板・・・

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後で見つけた読みやすい説明も並べます。

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「東谷山 禅林寺」は「臨済宗建長寺派」。『文禄2(1593)年の創建 開基「島田九郎右衛門」 開山「春学禅師」』  この記述が正確なものであれば、1800年代の初めに書かれたという「新編武蔵風土記稿」に、登場する筈なのです。ところが、同書に記載されているのは、『(羽村) 深林寺 境内除地二段四畝十四歩 小名根岸にあり 東谷山と号す 禅宗にて村内一峰院の末 本尊如意輪観音木像長一尺五寸 外に長九寸許の正観音あり 弘法大師の作という 太閤秀吉所持の木像にて故ありて木の下某より寄附せしものという (中略) この寺近年回録の災に遇て旧記等もうせしかは何事も辨せす 堂宇もいまた再興なし』。現在の禅林寺より西の方の「根岸」というとm73-39-03 CF0182ころに、「東谷山深林寺」のやけあと(?)があるというのです。なぜ、「禅林寺」が記載されていないのか、全く謎です。なお、「一峰院」や「禅福寺」はちゃんと記載されています。

「東谷山禅林寺」の山門の天井には、「桃門玄鯉禅師」が描いた「雨乞龍」の絵があると書かれていますが、現在はわずかに墨の痕跡が見えるだけになっています。この山門は、文久二(1862)年の建築。「新編武蔵風土記稿」より後です 総合的に考えると、島田九郎右衛門さんが作られたのは、自家専用のごく小さな「観音堂」あたりで、寺としての確立は、1800年代に入ってからのことではないかと思われます。風土記稿には「観音堂」の記載がありますが、位置的には、ちょっと違うようです。

m73-39-05 花祭りF0192

本堂の前に進みました。こちらの「花御堂」は花が飾られないシンプルなものです。甘茶を掛けて、拝みます。

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小さなお釈迦様が二体。一方は、五円玉の指輪をはめておられました。左の縁側に「甘茶」を入れたジャーが置かれています。勝手に注いで、一杯ご馳走になりました。

この「甘茶」というのは、日本独自のもののようです。中国の漢方薬にはないそうです。材料は、ユキノシタ科の「小甘茶」と名付けられた「ヤマアジサイ」の一種だそうで、苦い葉っぱだそうですが、これを天日干ししたあと、一旦水に浸してから、発酵させるのだそうです。この発酵過程で、苦い成分が「フィロズルチン」という成分にかわり、甘くなるとのこと。「ズルチン」といえば、砂糖の代わりに使った甘味料ですね。現在では、長野県の佐久方面が主産地になっており、糖尿病患者の甘味料としても使われているとのことです。

目的は達しましたが、一応、禅林寺そのものを紹介しましょう。

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本堂正面のパノラマ、ほぼ180度振っています。左が「地蔵堂」、六角塔があって「本堂」、続きが「庫裡」、最後が「観音堂」です。地蔵堂のもっと左に、「鐘楼」があります。

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右端の観音堂は、「中里介山」が訪れた時、再建の論議がされていたという「観音堂」

m73-39-10 F0218観音堂

あまり、観音堂らしくない造りです。寄附金があまり集まらなかったのでしょうか?

m73-39-09 F0184本堂

本堂は昭和33年の再建、庫裡の方が天保年間・・・そう古くは見えないので、その後手入れされているのでしょう。

m73-39-11 F0195本堂手前、左の方に、昔湧き水があった洞窟的くぼみに、辨天様が祀られています。「水天宮」と書かれているのでしょうか? 真ん中の文字がよく分かりません。「水晶宮」かな? そんな感じですね。

本堂の北側を回って行くと、もう一つの信仰対象があります。下の写真ですが、向かって右端にある文字碑。「金龍王」と彫られているようです。『金龍大王はもともと人間で謝緒というひとであった。どういう来歴のひとかわからないのだが、現在では、黄河の支流である洪河のほとりに祠が建てられている』という記事を見たことがあります。中国系の竜神でしょうか?

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この石仏群の横から「煩悩坂」という石段が始まっていまして、上がって行くと中里介山の墓がある墓地に着きます。今日はそちらには行かず、「天明義挙の碑」を見ましょう。「天明の飢饉」の時に起こった、「一揆」の事件です。この「義挙」という解釈には、いささか異論もあるのですが、苦労されたことは確かです。m73-39-15 F0201

 

 

 

 

 

『災害と凶作の続く天明4年(1784)、米等を買い占める悪徳商人に対する一揆が起こった。羽村の農民が計画し、指導にあたった村役9人はその責めを負い獄死。明治27年この人々を義民として顕彰し、建立された。』というのが、羽村観光協会の説明です。

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横に大きな「馬頭観音文字碑」があります。その並びに、古い庚申塔がおかれていました。m73-39-17 F0206

 

「青面金剛」の上半身は欠けて見えなくなっていますが、足の下の三猿の形がめずらしいです。
「鐘楼」の脇に「水子地蔵」が立てられているのですが、この、地蔵に抱かれた子供達m73-39-18 F0216が少々いやらしい? 子供っぽくない顔なのです。 子供っぽく見せるには、顔の下半分に、目・鼻・口を配置すれば簡単なのに?

まあいいや、そろそろ、次の支度に懸からねばならない時刻のようです。急いで、帰宅します。

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