2016/04/29:越生散歩;木瓜爺撮歩88-36-2 春日神社  (No.2669)

春日神社には、「随神門」がありますが、右大臣左大臣像などは見えません。

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ちょっと物足りないのですが、門をくぐって入ります。

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一段高い所に、手水所や神楽殿、神殿が並んでいます。

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神楽殿は、こちらでは「舞殿」隣っていました。

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ここで迎えて下さったのは、「恵比須・大黑」です。

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こちらには、境内社としての「大黑様」があるのですが、それは後ほど・・

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社殿はこちらです。屋根の感じは、「入母屋造り」のようです。「神社人」というデーターベースがありますが、この「春日神社」に関しては、かなり詳しく書かれているようです。一部を転載させていただきます。『由緒:当社の創建は、延暦元年(782年)とされる。当地内裏山の獅子岩の近くに祭祀されたを、征夷大将軍の坂上田村麻呂が、東夷征伐の際、現在地に遷し宮殿を増築したとされ、内裏大明神と称した。また、平将門が内裏を置いたとされ、延喜年間(901年~923年)には、平国香(将門の伯父)が修繕。松山城の城主、上田能登守の再建を経て、元禄4年(1691年)に、現在の春日神社と改称し、越生十六郷の総鎮守と定めた。慶安3年(1650年)には、将軍徳川家光より社領を与えられ、明治5年の社格制定の節には、越生総社に列せられた。所在地:埼玉県入間郡越生町西和田317』 将門が出て来ましたね。それと、「春日神社」に改称したのは元禄年間であるということです。

将門が内裏をおいたという説は、少々噴飯ものなのですが、武蔵国司を援助したときに、現地妻を囲った程度のことはあったかもしれません。ただ、ここに出てくる伯父、平国香は将門の敵になった人だけに、そんなところに弱点を置くというほど将門はアホだったのだろうか?

話を神殿前に戻します。狛犬は「獅子」です。

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「吽」が子獅子を抑えています。  拝礼した後、横に回って見ました。後部に神殿があるようです。右には、末社が一つ。

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まず、後部の神殿部分です。中がまるで見えませんが、覆殿で、中に小神殿が入っているのでしょう。

m88-36-18 F1520春日神社神殿

m88-36-17 F1518横の境内社は、「八坂神社」でした。

社殿の向こう側にも、境内社がありそうなので、見に行きます。m88-36-19 F1522

これが、「内裏大黒天社」でした。舞殿に像が置いてあった位ですから、まさか御札と言うこともないだろうと、中を覗きます。

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ちゃんと大黑様が居られました。其の横に、「平将門霊神」という札が立っています。意味は、よく分かりません。

「新編武蔵風土記稿」を読み直します。『・・(前略)・・此社は延暦元年村内願龍山と云所に鎮座せして永禄元年上田能登守今の地に移せしと云 此説の如きは前の縁起と異なり 例祭九月廿八日廿九日の両日 流鏑馬を修業す 此の流鏑馬式の来由を尋るに 近戸権現別當最勝寺 古当社の別當職を兼し頃 当所の宝物大般若経を所望し神職及び氏子に請うて最勝寺に送りし時、彼近戸権現の旧例に行はる、流鏑馬式と易しより以来当社にて行ふと云ふ されと今も社内には大般若経二三巻あるはそのかみ最勝寺へ移せし時 たまたま取還せしならん 此社 今は今市 大谷 黒岩 及び 当村の鎮守となせり   摂社 大神宮 八幡社 末社 八百万神社 稲荷社 天神社 神職 石井肥前 京都吉田家の配下なり』

どうやら、八坂神社も内裏大黑天社も、比較的新しいもののようです。平将門内裏伝説も、江戸期にはなかったようでした。なお、「近戸権現」というのは、「田原藤太秀郷」の霊を祀った神社で、現在は「梅園神社」(越生梅林の近くにある)に合祀されているようです。

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