2016/05/21: 越生散歩;木瓜爺撮歩88-47-1 五大尊つつじ公園〔1 稲含神社 と 三峰神社〕 (No.2691)

昔の「黒岩村」に入ったようです。「新編武蔵風土記稿」の「黒岩村」には、「長徳m88-47-01 F1010寺」という臨済宗のお寺と「五大尊堂」、「松祠軒蹟」、「吉祥寺蹟」の四つが記載されており、「長徳寺」は「正法寺の末で、五大尊堂の堂守」でしたが、現在はなくなっています。「五大尊堂」は、伝説の塊のような場所でして、それを整理して書くのは容易ではありません。

そろそろ、右に入る場所に来たようです。スクールゾーンの中心は「越生小学校」だと思うのですが、その西北西200m位の所に、「五大尊堂」がある筈(地図上の理解)なのです。

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適当に右折して、周囲を眺めます。これは、何かのイベント広場かな?

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こちらが本物? 木瓜爺が立っている道にも有るのですが、もう一本北の道に、五大尊の旗?幟?がずらりと並んでいます。多分こちら側からの参道なのでしょう。ちょっと後戻りして、北の道に移り、進みました。ただし、そのまま進んでも、合流出来たようでした。

m88-47-04 F1019五大尊

 

やがて、山の麓に到着。山の上に「五大尊堂」らしい物が見えます。「旗」と「幟」の区別がつかない木瓜爺ですが、ここに立っているのは「のぼり旗」つまり「幟」だそうです。簡単に言うと、上と横で旗竿にくくりつけられているのは、「幟」というようです。「旗」になると、一辺支持になるので、生地なども丈夫なものを使うのだそうです。これは制作者サイドの説明。でも理解しやすいです。

歩いたのは5月3日です。「五大尊つつじ公園」は、「つつじ祭り」の最中でしたが、同時に「五大尊堂」の縁日でもあったようです。山麓には露店も並び、賑わっていました。その奥に、山車も出ていたのですが、木瓜爺「帰りに写せばいいや」と、無精します。目の前に山に登る階段があったからなのです。ところが、山の上で気が変わって、別の道を下ってしまいました。ですから、山車を後回しにしたのは、大失敗でした。やはり、順番に写して行くのがよいようです。

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こちらが正面にあった石段です。ここで、あれ? と思ったのが、赤い鳥居です。「赤い鳥居」なので、単純にお稲荷さんだと思ったのですが、頂いた「五大尊つつじ公園案内図」によると、「イナフクミ社」と書かれています。木瓜爺は初めて見る名前の神社です。

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 手水舎に寄って・・ありゃ珍しい、手押しポンプの井戸です。

 石段を上がります。下って来る方もおられます。「五大尊堂」へのお参りだけの方でしょうか?  ちょっと上がった所に、横方向に参道を横切る小径がありましたが、石碑が並んでいます。これをゆっくり眺めながら歩くと、一日がかりになりますね。m88-47-08 F1025

 

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右上の神社を眺めると「吒枳尼天」の幟が並んでいます。矢張り、お稲荷さん系ですねえ・・それも仏教系、つまり豊川稲荷と同じ系統のようだ、と思いました。

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ところが、奉納額をみると・・・前にガラスがあるので、ちょっとピントが甘かった・・繭玉が並んでいるのです。

m88-47-11 F1029繭

 

 

「養蚕」に特化した稲荷社かな? ここ時はそれ以上のことは分かりませんでしたので、帰宅してから、「イナフクミ神社」を調べました。

総本社らしいのは、群馬県の下仁田町と甘楽町にまたがる「稲含山」にある神社で、登山道の左右(それぞれの町域)に「下仁田栗山 稲含神社 群馬県甘楽郡下仁田町栗山1622 」「 甘楽秋畑 稲含神社 群馬県甘楽郡甘楽町秋畑6016」と二社あるようです。ただ、祭神は「神道」に基づいた祭神になっています。『下仁田町栗山 稲含神社
宇迦之御魂神 經津主命 速玉之男命 伊邪那美命 事解男之命 天兒屋根命 建御名方神 大國主命 大山津見命 大物主命 』、『甘楽町秋畑 稲含神社 宇迦御魂神
配祀 經津主神 大山祇神 事代主神 建御名方神 八坂刀賣神』 是で見ますと、主神は「宇迦之御魂神」つまり、伏見稲荷系の主神ということになりそうです。

ところが、現地を訪れた方のブログを見ると、栗山稲含神社の境内の由緒書には、違う神様が書かれているようです。神社の由緒では、

『稲含神社の起源:稲含神社の祭神は豊稲田姫とされている。 『稲含大明神御縁起』によれば、第28代安閑 天皇の御代(530年頃)に創建されたといわ れる。那須の中野 保家には、この縁起書の 写本が保存されており、永正2年(1505)3月 と記されている。その文面には、豊稲田姫は 印度の国から日本へ渡って、養蚕、稲作を日 本に広めたとあり、また姫は稲含へ行って蚕 を飼ったという伝説がある。
 参道の途中に、手水場・籠岩・桑の木沢と いう所がある。山から出て来た姫は、”天熊 の大人”という人物を従えて、神池の手水場 で御手を洗い、大人の命により桑の木沢より 桑を取らせて、岩の上で蚕を飼われた。それ からこの岩を籠岩と言うようになったという。豊稲田姫は、印度から稲の種子を持って来 られるのに苦労され、どこに隠しても見つか ってしまうので、口に含んで持って来られた と言われている。
 以来、養蚕と五穀の守神として、今も多く の人が参詣している。』

こちらの「吒枳尼天」を祭る神社について、後で気づいたのですが、「つつじ広園案内図」の裏面に、こう書かれていました。『山裾を鮮やかに彩るつつじは、享保年間(1716~36)の植栽と伝えられています。5月に行われる「つつじ祭り」は、もともと境内の吒枳尼天社の祭礼でした。「イナフクミ様」と呼ばれる社は、群馬県甘楽郡の稲含神社を勧請したものと考えられ、養蚕の神として信仰されています。』

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「吒枳尼天」は、乗り物に狐を使っておられますので、狐も沢山飼育中です。この神社m88-47-13 F1030が入っている建物なのですが、リユースの建物です。元は、八坂神社の「御輿殿」でした。証拠は・・・神殿の上に見える額です。今写しますから・・この「吒枳尼天社」は元々長徳寺あたりにあったのでしょう。そこに「稲含神社」を勧請・・つまり、合祀した、ということのようです。この位置に引っ越すとき、八坂神社の建物を貰ったのかな?

「五大尊堂」にたどり着く前に、まだ神社があります。参道左側に「三峰神社」です。

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こちらの神社は御札が神体として入っていました。更に、この少し上の右側に、「和合神」「天満宮」があるということになっているのですが、記憶がはっきりしません。下りの人が続いたので、視界が遮られて見落としたのかも知れません。

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これは、境内「四国八十八箇所霊場」の石碑です。このお話は、明日に。振り返った下界を眺めて、今日は終わります。

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