2016/06/10: 津久井散歩;木瓜爺撮歩97-44 金剛山観音院普門寺 (No.2711)

『普門寺 金剛山観音院と号す。新義真言宗。 武州多摩郡 高尾山薬王院末 天平年中の起立と云 中興開山頼真 宝永四年十二月十三日寂 本尊不動なり 慶安元年十二石二斗余の御朱印を賜はる。(中略) 後ろは飯綱の山に連て、林巒崢嶸として繚繞せり。 其の山腰に一区の古道場を開けり。仏殿の結構は、高からず。卑しからず。佳麗ならす 鄙陋ならす。堂舎 軒を並べて経営せり 勝概と云い、眺望と云。佳ならさるはなし』 読み方の分からない字が並んでいますが、素朴な見栄えを、だいぶ褒めて居るようですね。

m97-44-04 F2350普門寺不動堂

m97-44-05 F2351これが、本堂に相当するようです。「不動堂」の額が上がっています。ガラス越しに中を覗いてみたのですが、中央に金色の塔が置かれて居るのは見えましたが、その他は分かりませんでした。不動明王の御真言がいまだに覚えられない木瓜爺、ともかく「南無不動明王」で拝んで置きます。

向かって左のとなりに、観音堂があります。

m97-44-02 F2348普門寺観音堂

ここには、説明板がありました。

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観音様の写真もあります。立像105cmです。平安後期のものと見られています。「卯年」に公開されるので、「卯年観音」ですか・・・入口にあった観音霊場表示石柱の意味を誤解していました。「卯年観音」というのが三十三もあるのかと思った・・・「武相卯歳観音霊場」というのは、横浜、大和、八王子、相模原、町田、多摩、日野などの各市にある、48の観音様が、「卯年」に開扉される「観音霊場チェーン?」になっているのだそうです。 次の卯年まで木瓜爺生きていれば、回って見ましょうかねえ? もう生きていても動けないかなあ・・・

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m97-44-06 F2358「救密殿」でしょうか? ここから、境内の仏様をまわりますが、沢山おられますので飽きてしまうかも。まずはお地蔵様ですね。「延命地蔵」と書かれています。m97-44-07 F2359

隣のこの石碑は「竜神」様らしい。m97-44-08 F2360

次のお地蔵様のようなお堂は・・・特別なものらしいですよ。

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m97-44-10 F2362「お沙弥様」という人(名前は女性ぽい)の供養碑なのかな? 「即身佛」を目指したのか「土に埋められた」らしい。です。頭が如来の頭になっていますね。「螺髪」っていうのでしたか? 地蔵様でないことは確かです。

何かないかと検索。こういうお話を見つけました。『オシャリ様の話
 今からおよそ250年ほど昔の話です。小松に細谷右馬之丞と云う人が住んでいました。この人は八王子人同心で医者だとも云われている人です。普門寺の境内には、オシャリ様と呼ばれている大きな石仏があります。このオシャリ様はできものを治してくれる神様と云われ、ほうぼうからお参りに来たと云います。
右馬之丞さんは、寺のオシャミ山に穴を掘って四十九日後に入寂しオシャリ様になりました。その時の様子をこんなふうに伝えています。
「オシャリ様はなあー、ちっちゃい鉦を持って穴に入り、これが聞こえなくなったらヨ、おれは死んだと思ってくれと言ったよ。穴の中では豆を食ったちゅうよ。竹の筒っぽで息抜き立を立て、中からチャンチャンと鉦の音が幾日か聞こえたちゅう事よ。ちゃんと小松にお墓もあらあな」どうしてこの様ななくなり方をしたかと云うと、「オシャリ様はな、みんなの幸せを願いながらなくなったんだ』 女性ではなく、男性でした。

m97-44-11 F2363永代供養墓

これは「永代供養墓」です。左に六地蔵が見えますが、その間にちょっと珍しい展示方法で、「宝筺印塔」がおかれていました。下の写真が、頭部なのです。

m97-44-12 F2366宝筺印塔1

胴体の方は、二つ並んでいます。

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m97-44-14 F2368

右の大きい方だそうですが、こんな説明がついていました。

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字が薄くて読み切れないので、インターネットで検索。『右側の一基は「天保御用金事件」の犠牲者供養塔と伝えられています。天保二年( 一八三一)、諸国飢饉、幕府の財政悪化の折、上川尻村に課せられた御用金をめぐって領主の用人と名主が不正を働くという事件が起こりました。不正に抵抗した村人は相談し、天保三年、勘定奉行、老中目付に駕寵訴という非常手段で訴え出ます。しかし関係した両者は共に捕えられ、伝馬町の牢で伝染病にかかり、事件の結着も見ず怨みを残して死んでしまったのです。しかしその後も村内の内粉は納まらず、弘化二年(一八四五)犠牲者達の十三回忌に至ってようやく和解が成立、三月、人々の冥福を祈り宝謹印塔が建立されました。以後三月二十八日を命日として、明治維新まで関係者、上川尻村一統は施餓鬼会を営んで供養を捧げたということです。』なのだそうです。

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やっと六地蔵に到達します。これは、新しいもののようですね。ただ、地震の所為かどうか分かりませんが、台の上を歩かれたお地蔵様もあるようです。落ちないでくださいよ。

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六地蔵塔もありました。仁王門の所で、掃除をされていた男女一組と、ちょっとおしゃべりをしました。男性は、岡山の方だそうで、向こうに住んでいた頃は、周辺の城廻りを趣味としていたというお話をして下さいました。女性の方は、当地が長いようでしたが、城山に登ったのは、だいぶ昔だとのこと、地元の方でも滅多に登らないらしいです。いろいろ伺いたかったのですが、お仕事の邪魔をしてはいけないと、切り上げます。

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