2016/06/14: 津久井散歩;木瓜爺撮歩97-47-2 太井山功雲寺2 (No.2715)

「功雲寺」の歴史について、一番古くから書かれていたのは、「高橋石材店」という墓石屋さんの頁でした。『<慨史>:功雲寺の前身は、宝ケ峰西麗にあった耕雲庵です。応永15(1408)年に建てられたとされるこの庵を戦国期の築井城主であった内藤左近将監景定が開祖となり、根小屋に移して功雲寺と改めました。
時の住職潮翁能音和尚は静岡県蔵春院から当寺に招かれたため、開山は蔵春院と同じく大綱明宗大和尚(最乗寺2世)となっています。
内藤景定(天文3(1534)年3月27日卒)の子大和守景豊の時、徳川勢の平岩主税に攻められ、天正18(1590)年築井城は落城し、内藤氏はこの地を追われることになります。そのとき、、景豊は築井城の守護神であった道了権現(小田原最乗寺より分身勧請された)を徳川氏より50石のご朱印を下賜されました。当時相模国内で50石以上の朱印を下賜された寺は17ヶ寺程だそうです。
寛文6(1666)年の文書には石高256石とあり寺領の大きさをうかがい知ることができます。往時には修行期間に50人の修行僧が集まること(本堂右額元禄5(1692)年)、寺代官をおいて内外の業務を行ったこと。七堂伽藍があったことなども古文書に記されています。』 この石材店は、創業が延宝三(1675)年と云うことですから、「新編相模国風土記稿」より前でしょう。なお、功雲寺の鐘の銘が、延宝七年製だったそうですから、それ以前の創業。この歴史はたいしたものです。古文書でも残っていたのでしょうか・・・

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やっと、本堂にご対面! 額の文字がボケていますね。みっともない! 右から「功雲禅寺」です。左の方に、もう一つ額があります。これはくずし字が読めないなあ・・「道了大薩埵」です。ズバリ読めたわけではなく、「道了尊」からの推定。『大雄山最乗寺の守護道了大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者(ぎょうじゃさがみぼうどうりょうそんじゃ)として世に知られる。』

道了大薩埵は、師の了庵禅師が75才で遷化のあと、「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている。という方。・・・こうしてみると、烏天狗クンは、こちらの方の友人で、応援出演かも知れないな・・

あれ? この「道了大薩埵」が山中に隠れる姿、「普門寺 飯縄権現堂」の本尊じゃなm97-47-10 F1552いの? 6/9のブログの写真見てください・・・こうなると、浅学木瓜爺の手には負えません。でも、凄い発見をした気分です。 この地域の飯縄信仰の裏には、北条の道了尊信仰が入り込んでいるのかも・・・で、なければ、大雄山のほうに飯縄権現の影響が出ているのか・・・

本堂にならぶ建物、客殿のようです。こちらには「太井山」の額。ただし、井が丼に見えます。

「新編相模国風土記稿」の功雲寺説明がまだでしたね。かなり多くの事が書かれていますので一部を紹介するにとどめます。

『功雲寺 太井山と号す 曹洞宗 下総国国府臺 総寧寺の末 開山大綱明宗 応永十五年に創建し、永享九年に寂す。 開基左近将監景定。天文三年三月廿日卒 法諡(中略) 本尊釈迦 慶長四年二月十日。五十石の封券。御朱印を賜る。(以下略)』

この当時の伽藍としては、総門、楼門、本堂、開山堂、禅堂、庫裡、回廊、鐘楼。そして「白山」「冨士浅間」、「古墳墓」(これが、内藤左近の墓などです)、後は「長刀」「首塚」などが書かれています。この「首塚」というのは天正十八年に、豊臣勢が津久井城を攻めたときに、城兵の首を獲て埋葬した塚のようです。

m97-47-17 F1577 これは「寒山拾得」の碑なのですが、いわれは読めませんでした。そうそう手水舎が面白かったのです。「手水鉢」が下の写真。木瓜爺はカボチャがあm97-47-18 F1582ると思ったのですが、カボチャではなくて「蓮」だそうです。

m97-47-19 F1585こちらは、地蔵堂なのですが、真ん中のお堂が「水子地蔵」、左右は延命地蔵だと思うのですが、幟は全部まとめて、水子地蔵扱いでした。後部には、観音様もおられました。

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本堂前を離れて、烏天狗の間を抜け、「白山堂」に行きます。ここは「白山神社」だったわけですが、現在の地図には「白山堂」となっています。ちょっと高い場所です。

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神社としてお参りしておきます。中を覗くと、やはり神社だったようです。

m97-47-23 F1608白山堂内部

この白山神社の後ろに、もう一つお堂があったのですが、この建物の写真を写し忘れたのか、写らなかったのか・・・見つかりません。額は写っています。それが下の写真。

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なんと読めば良いのか、木瓜爺は「萬沐堂」などと読んでしまったのですが、「茶」だとか「草」だとか似た字がいろいろ出て来まして・・・この時点では、分かりませんでした。
寺の紹介ブログでは、「開山堂」があるとしてるのが多いのですが、「開山堂」なら「開山堂」の額を付けるでしょうから、別物でしょう。もっとも、ブログによってはひどいのがありまして、この功雲寺も「山門」からはじまって美辞麗句が並んだもののもあります。「山門」ってどれを指しているのか、木瓜爺には未だに分かりません。実態を見ないで、他の紹介記事からのコピーをしているとしか思えない物も存在しています。

m97-47-26 F1602問題のお堂なのですが、中を覗くと、これは仏教でした。ブログを書き始めてから、横位置で写した写真の左隅を拡大すると「オンコロコロ・・」と真言をかいた札が写っていました。ということは、「薬師如来」です。

お堂の名前は「薬師堂」だ!

この一角に、こんな石象もありました。m97-47-24 F1612

 

木瓜爺には何かわかりません。仏様というより、袴をはいた人間のようです。それこそ「開山堂」の名残かも・・・

わからないことは多々ありますが、だいぶ時間も使ったので、出発します。川を2度渡って、八坂神社に向かいます。川を2度わたる? もしかすると、それが「功雲寺之図」の道かな?

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