2016/07/24: 新宿散歩;木瓜爺撮歩102-10 四谷山長善寺〈笹寺〉 (No.2755)

「四谷山長善寺」曹洞宗のお寺です。 「笹寺」という名前は、別名ですが、徳川家と関係あるようです。『笹寺という名前は将軍秀忠が鷹狩の途中に立ち寄り寺内の一面の熊笹を見て名付けた(家光という説もあm102-10-01 F3666る)。』と、云われています。山門前で、振り向くと・・・「新宿通り」から真っ直ぐ入ってこられたようです。帰りにあそこの表示を確かめましょう。ということで、後で写したのが下の写真です。「曹洞宗 四谷山 笹寺」と書かれた表札が懸かっていました。実はもう一つ浄土宗系の「長善寺」というお寺が近くにあります。それで、あえて「笹寺」を表示したのでしょう。m102-10-13 F3696笹寺入口

 

m102-10-02 F3665

 この「笹寺」、忍者のクーデター?にも関係があるのでした。どなたかの研究を読んだ事があるのですが・・『天正10(1582)年家康に召し抱えられた伊賀者は、天正18(1590)年の徳川家康江戸入府に従い江戸に移動した。慶長元(1596)年11月服部半蔵正成が死去するとその長男の服部半蔵正就は伊賀者の頭を継ぐ。しかし、次第に伊賀者を家僕のように使い始め、とうとう慶長9(1604)年配下の伊賀者は四谷の長善寺に籠り、正就の罷免を要求した』というお話です。

「冠木門」を入ると、直ぐ左に、稲荷神社ともう一つお堂があります。

m102-10-03 F3669

 

写真の左に少し写っているのが「冠木門」です。稲荷神社の額は、よく、よめなかったのですが、「**稲荷」「***稲荷」と二行書かれていました。もう一つのお堂は、「石像の不動様」が住まわれていました。

m102-10-04 F3694

m102-10-05 F3690

 

m102-10-07 F3675反対側には、観音様の立像があります。金色の冠を被っておられます。晴天だと綺麗に見えるでしょうね。

本堂に向かいます。この本堂には、「めのう観音」がおられるようです。説明板がありました。m102-10-08 F3677

 

これが本尊かと思いましたが、新宿の文化財というガイドブックによると、本尊は「釈迦如来石像」で、「めのう観音」というのは、「宝物」になっています。それと、四谷に寺が集められる以前からあった寺だと書かれています。

『曹洞宗・最善寺は、天正3年(1575)、「甲陽軍艦」の著者として知られる甲斐国(山梨県)武田氏の臣高坂弾正昌信の居所にむすばれた草庵から起こった。開山は文叟憐学和尚で、本尊の釈迦如来石像は元禄3年(1690)7月につくられたものである。四谷の多くの寺院が、寛永11年(1634)以降に麹町から移転してきたものであることを思えば、それらよりもずっと古くこの地に創建されていた長善寺の地域社会的意味はたいへん大きいといえる。
当寺は笹寺とも呼ばれているが、この名は、二代将軍徳川秀忠が鷹狩の途中ここに立ち寄り、境内に笹が繁っているのを見てつけたものだとも(「江戸名所図会」など)、それは三代将軍徳川家光が江戸巡覧をした時のことだとも(寺伝) いわれる。この二説には、いずれも確実な根拠があるわけではないから、どちらが正しいとはいいかねる。ただ、当寺の宝物となっている「めのう観音」(区指定文化財)が秀忠の念持仏で、秀忠の死後に夫人の崇源院が寄贈したという伝えや (夫人の念持仏との説もある)、開山の憐学和尚が寛永9年(1632)に没していることなどを考えあわせると、将軍秀忠の時代(1605-1623)のことと考える方が自然のようである。
この寺には「四谷勧進角力始祖」と刻まれた3mほどの石碑がある。これは力士明石志賀之助が寛永元年に境内で6日間の相撲興行をしたのを、江戸の勧進相撲のはじめとして東京大角力協会が建てたものである (異説もある)。
墓地には、本居宣長の門人で四谷刈豆店に住んだ林国雄(天保10年2月26日没、62歳)や、子の林甕雄(文久2年9月24日没)、孫の林甕臣(大正11年1月8日没)ら一族の国学者、同じ国学者で一橋家の目付役をした畠山梅軒(天保12年12月4日没、71歳)と孫の畠山如心斎(明治16年6月27日没)、求玄龍砲術の創始者である大草求玄(天保7年12月4日没、60歳)、中国(明)から帰化した医師・北山理庵(明和4年4月27日没、81歳)などの墓がある。(ガイドブック新宿区の文化財より)』

ここまでの記述で、面白いなあと思ったのは、忍者騒動は慶長9年(1604)ですから、まさに家康から秀忠への変わり目(秀忠が将軍になったのが慶長10年)です。忍者が集まった頃は、笹寺ではなく「高坂弾正の作った草庵」だったのでしょう。ですから、寺の歴史の中には、忍者騒動は出て来ないのが当然と納得。それにしても、本尊が元禄3年(1690)とかなり後なのが不思議ですが、もしかすると「めのう観音」が本尊であった時期もあるのかもしれません。

m102-10-09 F3667

こちらは「東京33観音の16番」だそうです。「東京33観音」歩いて見ましょうか・・ちょっと下調べしてみます。1番は品川の「海妟寺」、5番が芝の「金地院」、30番が上野の「東叡山清水堂」、31番が「浅草寺」・・撮歩で歩いたところが結構入っていますね。・・・とにかく、16番にお参りして、ちょっと境内を歩きます。

面白い物がありました。

m102-10-11 F3680

 

m102-10-10 F3681

「蟇塚(がまづか)」です。これは、慶応大学医学部生理学教室で実験用に使われた蛙たちを供養するために作られた供養塚です。『加藤元一博士:1890-1979 大正-昭和時代の生理学者。明治23年2月11日生まれ。大正7年慶応義塾医学科教授。12年発表の「神経の不減衰伝導学説」が第12回万国生理学会でみとめられ,昭和2年学士院賞を受賞。昭和54年5月1日死去。89歳。岡山県出身。京都帝大卒。著作に「生理学」など。』

m102-10-14 F3672「四谷勧進角力始祖」の碑は、3mの碑だから、目には入っていたのでしょうが、気付きませんでした(読めなかった、が正しい!)。しかし、カメラは気付いていたのでしょう。ちゃんと写していました。

さて、また、「新宿通り」を渡って、予定の「愛住町」の方に行きます。地図上では「安禅寺」という寺が目標です。

おっと、一つ写真を入れ忘れていました。
m102-10-12 F3685

広告
カテゴリー: 寺社, 散歩 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中