2016/07/31:新宿散歩;木瓜爺撮歩102-17 高月山長善寺 と萬亀山東長寺 (No.2762)

「源慶寺」のとなりに、「長善寺墓地」がありました。地図では、「東長寺」なのですが、入り組んでいるのでしょうか?

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この前を通って道なりに進むと「東長寺」でした。この墓地の前の道の向こう側に「長善寺」があったのです。先に「長善寺」を片付け?ます。

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「笹寺」の所で書いた、もう一つの「長善寺」は「高月山 長善寺」という浄土宗の寺院です。ここは「御府内寺社備考」にも書かれている古寺です。

『増上寺末千駄ヶ谷 高月山瑞翁院長善寺、境内御年貢地六百四十五坪半
起立之儀者元和九癸亥年ニ御座候山号院号之儀開山開基之法号ヲ以高月山瑞翁院ト号申候。寺地之儀者当村名主太十郎先祖高月尼ト申者寛永年中何程ニ候哉寄進仕其後享保十七子年六月同家先祖弥右衛門尚又地面寄進有之候っ右両度之寄進ニ而前書坪数ニ相成候得共初メ何坪後何坪候申儀相知不申候。
開山浄蓮社岌誉上人瑞翁直信和尚、正保五年戌子正月廿日寂。
中興開山信蓮社源誉上人随誓空道和尚、延宝五年十月十一日寂。
開基高月栄法比丘尼、寛永十六巳卯年六月廿四日寂。
本堂間口五間半奥行六間半。本尊弥陀如来坐像長一尺八寸。善導大師、円光大師、厨子入立像二尺。稲荷社方四尺。釈迦堂。釈迦如来、銅坐像長三尺余。』

新宿の文化財ガイドブックでは、『長善寺は同じ四谷四丁目に同名の通称「笹寺長善寺」があるが、こちらは芝増上寺の末寺、浄土宗で、高月山瑞翁院と号している。元和9年(1623)の創立で、今の神宮外苑絵画館付近にあったが、青山練兵場造成のため、明治22年当地に移ってきた。開山は浄蓮社岌誉瑞翁直信和尚、開基は高月栄法比丘尼で、開基は千駄ヶ谷名主太十郎の先祖にあたる人だという。両名の法名から山院号が付けられている。笹寺長善寺に対し、この寺が世に知られたのは、銅造釈迦如来像があったためである。仏体は1mほどの座像で、背に応永14年(1407)8月鋳造の銘文がある。豊臣秀吉が大阪城に安置していたと伝えられ、鉄砲の弾丸跡が八ヶ所ほどあった。これは大坂の陣の名残を示すもので、天和3年(1683)以来当寺に所蔵されていたというが、今はない。』と、笹寺と対比して説明しています。

さて、「東長寺」の方で、今回の撮歩終了とします。木瓜爺的にはこの「東長寺」は忘れられない寺になりました。ご覧のように、新しいお寺なのですが・・・

m102-17-03 F3789東長寺

 

「萬亀山 東長寺」曹洞宗寺院です。建物は新しいのですが、開山は慶長7年(1602)だそうです。石段を上がります。山門のように見える建物ですが、これがもう拝殿になっているのですね。雨足が写っていますね。かなりの降りになっていました。

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賽銭箱のあるところまで入ります。

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正面の「東長寺」額の付いた建物が本堂。まわりが「回廊」になっています。この回廊の絵については、『水の苑の回廊には、お釈迦様の誕生から涅槃までを描いた漆の壁画があります。この壁画は、中国の現代美術家、蔡國強氏が独自の解釈で、お釈迦様の生き様やその教えを表現する原画を制作、さらに輪島の漆職人たちが伝統的な技術を活かして仕上げたものです。』と、HPに説明されていました。

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前庭は水で池になっていますが、普段でも水が入っているのでしょうか? 東長寺のHPを見ますと、水が入っています。そして、こんなご挨拶がついていました。

『東長寺は四百年記念事業として、平成元年に現在の伽藍を建立しました。
新伽藍を拠点に、檀信徒や一般の方々にとって親しみやすい仏教活動の場となるよう、
時代に応じた寺院のあり方を模索し、かたちにして参りました。
これからも、「時代に呼応する」寺院であるために、日々精進して参ります。』

『東長寺は、文禄3(1594)年、現在の埼玉県熊谷市にある東竹院第四世、雪庭春積大和尚により開創されました。雪庭大和尚は東長寺の他、勝興寺、福寿院を開創し、徳川家康の帰依を受けていました。言い伝えによると、ある日家康が西から東へ流れる星の夢を見て、この夢の判断を雪庭大和尚に頼んだところ、「東照る西に御星現われて、家康国の宝とぞなる。」と答えられたといいます。

東長寺の開基は、土肥家二代目当主、土肥孫兵衛であると伝えられています。慶長7(1602)年、孫兵衛が内藤修理亮(清成)の組下として組屋敷地割りに携わった折、割り余り地を拝領し、約2300坪のその土地を東長寺境内地としました。 江戸時代を通じ、武士たちにとって禅僧について参禅(学問)することは、教養の基盤であり、東長寺は諸藩士の菩提寺として、また学問寺としての性格を強めていきました。また、庶民の間にも寺社詣でが浸透し、寛永年間には本堂、元禄年間には鐘楼堂、総門、中門などが建立され、東長寺も興隆しました。 しかし、明治元年火災に遭い、すべての堂宇を焼失し、一時は極度に荒廃しました。その復興後、第二次大戦の東京大空襲で再び堂宇を失ってしまいました。以後、東長第三十二世、禅嶽興準大和尚と檀信徒の努力により本堂、書院、庫裡と、順次再建されてきました。

開創から約400年、時代の変化にともなって寺の姿も変わってきました。現在の伽藍は東長第三十三世、慈嶽和夫大和尚発願のもと、「開創400年記念事業」として平成元年に竣工したものです。禅宗の伽藍配置にならい、7つのお堂が適所に配置されています。現代建築の合理性と歴史的な寺院建築の落ち着きをあわせ持つ寺となりました。この計画にm102-17-07 F3800あたっては、現代の寺、都市の寺であることをふまえ、人が集い、仏教にふれる場となることを念頭におきました。そこで、街を歩く人が一時の静寂を得ることを願い、境内に水苑をつくり、こころやすらぐ空間としました。また、人々が集まる場として設けた講堂は、竣工以来、現代美術を中心とする展示で、海外の作家も含め、これまでに多数の意欲的な作家を紹介してまいりました。』

このHPを拝見すると、地下などのいろいろな施設が作られているようです。

池に落ちる雨の音を聞きながら・・・と書きたいのですが、耳の感度の低下した木瓜爺、もっぱら目の方で波紋を眺めていました。

m102-17-08 F3801「多宝塔」もありましたが、これは「合葬墓」なのだそうです。『多宝塔は、当山檀信徒の総墓、没後33回忌を過ぎた方々の合葬墓です。祖霊として昇華されたご先祖をお祀りし、ご供養しています。』とのことです。 この中の観音様がまた一風変わっていました。マイク片手に歌っているのかと思いましたよ・・

途中、つれないお寺があって、意気消沈していたのですが、ここで「新しい寺」の姿を拝見しまして、少し元気になりました。

元気を回復した所で、8月に突入です・・・

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