2016/08/11: 大井町散歩;木瓜爺撮歩94-70 「しながわ区民公園」と「濱川神社」  (No.2773)

「旧東海道」は「鈴ヶ森刑場」の少し先で「京浜第一」に吸収されてしまいますが、その少し手前を歩いております。左手に大きな公園があります。

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これが、「しながわ区民公園」なのですが、やたらに大きいのです。「うなぎの寝床」という言葉がありますが、そんな感じの公園です。

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この公園地図の右端にあるオレンジ色が「水族館」です。そこに入る道というのは、かなり手前にあります。現在地点の所から奧に入って行くとスポーツ用の施設があるようです。現在時刻12:17 お昼にしましょう。

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昼食をとっているのは、公園管理の作業員でしょうか? 同じようなシャツを着ていますね。木瓜爺は少し進んで藤棚らしい屋根のあるところに座り、持って行ったお結びを囓りました(少々固くなっていた・・)。

鳩が足元にやってきておねだり・・でもやるほどはありません。「柿の種」が一粒、ザックの中にこぼれていたので、ポイすると、スズメには大きすぎるのか、つついただけ、横から鳩が来て丸呑みしました。ふーん と、妙なことに感心。

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再び西に向かいます。学校の前で、「濱川神社」の石碑を見つけました。でも神社らしm94-70-05 F2252いものが見えません。ビルに組み込まれたのか・・・一応、「新編武蔵風土記稿」の「濱川神社」を紹介しましょう。と、云ったのですがこれが分からない・・「猫のあしあと」さんにお伺いを立てると「品川区の文化財」という資料があるようです。それには、

『当社の発祥は江戸期の修験である。天明頃に福島三右衛門という者が、富士山、高尾山そして出羽羽黒山で修行して羽黒修験となり、自宅に厄神大権現を祀ったのが当社の始まりであるといわれている。
三右衛門はのちに教光院了善と称したが、江戸城大奥の女中や、諸大名から篤い尊信を受けていた。天保13年(1842)に了善は町奉行鳥居甲斐神のために穽られて流罪となったが、嘉永3年(1850)放免され、嘉永5年(1852)に了善の孫大野良顕が再興した。明治維新の神仏分離の際に当社は神社となって浜川神社と称し、良顕が還俗して神職となって奉仕した。当社は江戸期には厄神と呼ばれて厄除けの神として尊崇されていたが、元来地元の鎮守でないため氏子がなく、信徒が各地に散在し講を結成している。信徒が特に多いのは、東京湾を隔てた対岸の房総沿岸地域で、木更津から佐貫、鴨川にかけての漁村の人々の信仰を得ている。江戸期には祭日にこれらの人達が舟で東京湾を横断して当社の前に上陸し、その日当社に参籠して翌日高尾山に参拝登山したといわれている。』 なるほどねえ・・結構由来有る神社なのですが・・・

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m94-70-07 F2255このダイジェストが、立て札になっていました。文書類が有形文化財に指定されているのです。 此の鍵を開けないと、参拝できないようです。これが、びくともしません。少し離れて眺めると、社殿は二階屋上にあるようです。m94-70-08 F2256

 

 

 

 

 

どうも、予約制らしい・・・ということで、参拝なしで次に行きます。

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