2016/08/19: 三ヶ木散歩;木瓜爺撮歩97-56-2 三箇木神社2 (No.2781)

鳥居をくぐって参道を進みます。山裾に入ってきました。左上の方に坂道が見えて居ましたが、所謂「女坂」だったようで、帰りはそれを下ってきました。「男坂」側は石段です。ここが入口のようです。大きな石碑は「天明一揆の集合場所」。

m97-56-15 F2673

天明には冷害による飢饉があり、百姓一揆が続発したことになっていますが、実際はもう少し複雑な「経済的メカニズム」が働いたようです。つまり、単に食うに困ったのではなく、最近の研究では、富の偏りに対する不満の爆発とみられるようです。羽村にも一揆を義挙とした記念碑があります。関東地方の「天明の飢饉」の直接原因は、天明3年の浅間山の噴火・降灰でしたか? 作物は駄目になる(年金は減る)、年貢(税金)は増える一方、儲けている奴は儲けている・・・一揆でも起こすか!・・・なんてぼやきながら、石段に向かいます。m97-56-16 F2674

「164段」より多そうですよ(算えていたのですが、メモするのを忘れました)。右に小屋がありますね。これは、御神輿の倉庫でした。後で、中の御輿の写真をお見せします。石段の一番下の手水場がありますが、御輿庫の所にも小さな手水舎がありました。山の清水が導かれているような感じです。登り口付近に祠なども置かれています。

m97-56-18 F2679m97-56-17 F2675

 

m97-56-19 F2681

m97-56-20 F2684御輿

 

これが、御神輿です。

さて、本気で上がります。暫くカメラは休止。下は、到着した社殿です。想像していたよりも素朴な社殿。「諏訪社」の痕跡は?

m97-56-22 F2689

 

m97-56-24 F2694

m97-56-23 F2691 「神額」がありました。「三箇木神社 正一位諏訪大明神」併記されています。「新編相模国風土記稿」の「諏訪社」で間違いないようです。旧い社殿は見られるのかな? 横に回って見ましたが、こm97-56-25 F2697れは駄目です。覆殿がすっぽり包んでいます。でも、後部に神殿が納められているであろうという推定は出来ました。

沢山有る筈の境内社は、思ったより少ないので、一緒に祀られているのでしょう。目に付いたものから、紹介しておきます。m97-56-26 F2698末社八坂神社

 

一番大きいのは、赤く塗られた「八坂神社」これは「新編相模国風土記稿」に圓通院持と書かれている『牛頭天王社』でしょう。m97-56-27 F2701金刀比羅神社

 

この石碑と石祠は、「金毘羅社」のようです。「稲荷」「聖天」「山王」「日天」「八幡」は「石祠」であちこちに散在しているのかもしれません。なにしろ広大な境内ですから、ちょっとお参りした位では全貌がつかめませんでした。

m97-56-28 F2714

下りに使った「女坂」からの風景です。村の鎮守様ですから、こうした人々の暮らしを見守って下さっているのでしょう。

m97-56-29 F2716

こちらは、木が並んだ階段になっていました。ほぼ同じ位置に下っています。

m97-56-30 F2718

途中で、ちょっとズルをして、鳥居の方にでます。「諏訪社」の別当寺であった。圓通院のことを付記しておきます。「新編相模国風土記稿」には、こう書かれています。『圓通院 唐松山と号す。本山修験。小田原玉瀧坊配下。本尊不動』 つまり、「修験道」のお寺でした。「修験道」は明治に入って禁止されますので、廃寺になったのでしょう。修験道を歩んできた「山伏」のかたは、神官になられたり、やや共通点のある真言宗に鞍替えされたりしたようです。

広告
カテゴリー: 里山, 寺社, 散歩 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中