2016/10/16: 大山詣り;木瓜爺撮歩99-40 阿夫利神社下社参道 (No.2835)

昨日「新編相模国風土記稿」を引用して書いた堂の背後28丁の下の方5町たらずを登って行くことにしました。登山地図の所要時間は40分です。木瓜爺の足だと1時間ちょっと懸かるかな? まあとにかく出発。トイレの横を通って、ここは下るのだ・・

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この石段を上がって、あの橋「無明橋」をわたるのだ。この「無明橋」おしゃべりしないでわたって下さい。木瓜爺は一人であるいていますから心配はありません。m99-40-02 F5098m99-40-03 F5099

女坂七不思議の五番目。「話をしながら歩くと橋から下に落ちたり、忘れ物や落とし物をしたり、悪いことがおきます」という注意書きが、橋を渡ってから書いてあります。昔はきっと丸木橋のような心細い橋だったのでしょうね。m99-40-04 F5101

「十町目」と書かれた石碑。どこから始まっているのかなあ? あまり気付きませんでしたが、こういうものもあるようです。m99-40-05 F5103次の七不思議が出て来ました。

「潮音洞」です。潮騒が聞こえる・・木瓜爺の聞こえなくなった耳では無理だろうな・・m99-40-06 F5105

この辺までは、緩やかな坂道でしたが、やがて石段が始まりました。m99-40-07 F5109

これが、延々と続きました。写真も石段ばかり写っていますが、面白くないでしょうから割愛します。登っている間に、「新編相模国風土記稿」の不動堂の所を読みましょうか。『不動堂 雨降山大山寺と号す。本尊銅像 長三尺七寸 中興開山 順行作なり。二童子 各三尺一寸四分 同作』昨日の本尊の写真と違いますね。昨日の写真では、不動に対し童子がずっと小さく見えますが、不動様は本体部分の座高、童子は全高で記録されているようです。このあとが面白いのです。現代文風に書きます。『縁起によると 昔當山の峰頭に五色の光りがあって、土地の人が怪しんで峰の上まで行ってみると、地中に不動の石像があった。その後天平勝宝七年(755年)、僧良辨(ろうべん という読み方と、りょうべんという読み方の両方が存在しているようです。文字が朗辨だったという説もあるようです)が山頂に登って不動を拝み、お告げを得て、不動の像を刻んだ。この像は後に明王社の神体になる。そして、堂舎僧坊などを造立した。このことが天子様の耳に入り、相模、安房、上総の租税を寺用に使うようになった。その頃、良辨は父母の為に法華経を山頂に納めた。天平寶字五年(761年)、僧光増は、師の行基の遺言によって、不動の像を彫刻して安置(寺の方にでしょう)しました。元慶三年(879年)地震に依って佛僧は損傷し、多くの僧坊も火災にに罹った。(以下略 このあと中興の話になります)』 761年~879年の事はすっぽり抜けています。この縁起を信じると、最初は山頂がメインだったようですね。つまり、阿夫利神社上社とか大山寺奧の院がはじまりの場所だということになりそうです。これは、山岳信仰のほうの話が元になっている伝説かも知れません。それと、弘法大師が住職になったといわれる時期がすっぽり抜けているのは、縁起にないのか、あっても風土記稿の著者が信用しなかったのかもしれません。謎が残ります。

ついでに「石尊社」のほうを見ます。『石尊社 当山の本宮にして、山頂にあり。』という書き出しで、延喜式神名帳には「阿部利神社」と記載され、祭神は「鳥石樟船尊」であるが、御神体は秘密にされていて開扉しない。本地仏として十一面観音が坂本村観音寺におかれていること、等が書かれています。「大山寺駅」から「大山寺」に向かう途中の「十一面観音」には、こうした本地仏という背景があったのですね。

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12:01の画像です。最もきついと感じ、足が止まりました。相当疲れていたらしく、ふらふらよろけました。慌てて、手すりに掴まったのですが、途端に「チクリ!」アブか蜂か分かりませんが、手を伸ばした手すりにいた奴を脅かしてしまったらしい。左手の中指です。痛いところを口で吸い出します。中指をしゃぶりながら?又歩き出しました。痛みは暫く続きましたが、幸いに二箇所黒い黒ずんだ染みのような物が残っただけで、無事に納まりました。刺されたというより、噛みつかれた感じですね。いまも、染みが残っています。12:09 やっと、石段を卒業のようです。と、思ったのですが、まだ先がありました。m99-40-09 F5123

この階段を上がりきった所には、講中の石碑などがいくつもありましたが・・・

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ここに七不思議の全体説明の札もあります。ということは、上がってくる人は少ないので、此路を下る人達の為なのですね。それで、「無明橋」の説明が、渡り終わったとこm99-40-11 F5133ろにあった理由が分かりました。

また始まった石段。でも一段の高さも低いので、すいすい上がれます。これを上がった所に、分かれ道が出来て居ました。現在の「日向越」、言い換えると「展望台経由、日中薬師方面」でしょうか? 街灯がないから夜間歩行危険・・・山歩きしていれば、当たり前のことですが、そういうことも知らない観光客が来るのでしょう。m99-40-12 F5136見晴らし台への路

m99-40-13 F5139ここが、「簑毛越」や「日向越」の路と交差する場所のようです。もう一踏ん張りと、また石段を上がると、トイレがありました。伐採木を使ったベンチも置かれていました。

これを過ぎると、神社の境内に入った感じがします。

茶店がある広場です。

「お帰りなさい、休んでいきなさいよ」、最初の茶店から、声がかかりました・・・続きは明日に。

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