2016/11/02: 北小曽木漫歩;木瓜爺撮歩36-16 蜆沢(えびさわ)の願王山 蜆澤院(けんたくいん) (No.2852)

読めない固有名詞というのは沢山ありますが、この「蜆」を「えび」と読むのには完全に降参です。これはどうみても「しじみ」であって「えび」ではないのですが? 「えび」を一文字で書くなら「蝦」「魵」「蛯」「鰕」「螧」・・・なんで「蜆」になっているのだろう? 漢字を並べていて、「えび」は虫なのか? 魚なのか? なんて事まで考えてしまいました。「海老」が一番分かりやすい? これも 海=え 老=び ? m36-16-01 F5394やっぱりわからねえ!

赤仁田・神明社を出て、また東進開始。すぐ「赤仁田」バス停です。この「仁田」も「新編武蔵風土記稿」では「新田」の文字を使っていましたね。次の「けんたくいん(蜆澤院)」は川の向こう側なので、左に入る必要があります。ここではまだ早すぎるのかな? でも、地図で見ると、この辺から入って良さそうですが・・「しじみ」を「けん」と読むのは旁(つくり)の部分の「見」から想像出来ました。・・・川の向こうは墓地・・

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とにかく、橋を渡って、川の左岸を進みます。左の山の方を見ますと「蜆澤院霊園」の看板が見えました。

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安心して、そのまま進みます。

この「蜆沢院」も複雑な合併があった寺らしいのですが、とりあえずは「新編武蔵風土記稿」の記述紹介から始めます。『(北小曽木村)蜆澤院 境内年貢地十間四方 字蜆澤にあり 是も同寺(根ヶ布にある高峯山天寧寺のこと)の末山なり 願王山と号す 客殿五間半に九間半 南向にして本尊将軍地蔵を安す 開山は了寶と云ふ 寛永二年示寂せり』

一昨日の「正澤寺」は「海禅寺末」でしたが、こちらは「天寧寺末」。勢力範囲が変わりました。「蜆澤以東」には、この他に、「天寧寺末」の「平岩山慈雲院(本尊勝軍地蔵)」「馬頭山龍谷院(本尊馬頭観音)」「岩井山保福院(本尊釈迦)」がありました。ついでに、記述しておきますと、字岩井(保福院のある所)に『観音堂』、小名蜆澤には『薬師堂』がありました。m36-16-06 F5401蜆澤院

 

「蜆沢院」に到着です。現在も曹洞宗寺院で、石碑には「願王山」「曹洞宗蜆沢院」と書かれています。入口手前左側の地蔵堂です。昔の本尊はここも「将軍地蔵」でしたから、石仏様にも現れるかと期待していたのですが、どうも違うようです。

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「勝軍地蔵」「将軍地蔵」二つの書き方がありますが、このあたりに多いのは、かっての杣保の主「三田氏」の名残のようにも思います。靑梅の有名なお寺では、「明白院」が、本尊勝軍地蔵でした。この地蔵様は、兜を着けたり、馬に乗ったり・・つまり、戦に出る形をしているのです。徳川家康も将軍地蔵信仰があったようです。見たい? 困ったな・・・Choi-Boke爺ちゃんのブロク写真にある筈なのですが、見つかったら補充しましょう。なお、愛宕神社の本地仏が勝軍地蔵とされていたそうですから、そういう所でお目に掛かることがあるかもしれません。

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先ほどの二体の地蔵の一つ、「享和二年(1802)」です。二百年経っているのに綺麗ですね。m36-16-09 F5404

もう一体小形の坐像がありましたが、頭部がなくなって丸石に変わっていました。m36-16-10 F5408

境内には、色々残っているようですが、よく分かりません。靑梅あたりを散歩される方のブログを拝見していて、こんな記述を見ました。

『蜆沢院(けんたくいん):北小曽木蜆沢(えびさわ)にあり、本尊は将軍地蔵。開山は天寧寺十世了室芸達であり,開創は慶長・元和のころ(1596~1623)と伝えられる。
明治初年・近在の天寧寺末寺の竜谷寺・保福院・慈雲院を合寺した寺院である。』 この最後の部分が重要でした。先ほど「新編武蔵風土記稿」で記述した、天寧寺末の三寺を廃寺にして、ここにまとめたということのようです。天寧寺サイドの記録でしょうか? あるいは、靑梅市史に出てくるのか? 機会があれば、確認したいと思います。

m36-16-11 F5409馬頭観音

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左の写真は「馬頭観音碑」。右の写真の右側も「馬頭観世音」です。「龍谷院」から来たのかな?  「第十七番」というのが気になりますね。奥多摩新八十八ヶ所には該当しませんし、多摩八十八箇所でもありません。観音霊場としては?「武蔵野三十三」ではないし・・・お手上げです。m36-16-12 F5410

 

分からないことだらけでしたが、一応、北小曽木村は歩いたことにしましょう。ここから、更に東に行きまして、成木八という交差点から左折して、成木四の「成木図書館」のほうに行きました。この途中、左の山に「神明社」があると書かれた地図もあるのですが、今は廃社になっているのか、入口が見つかりません。「新編武蔵風土記稿」では、「栗平の山上に七社権現」「岩井山の中央に午頭天王社」「坂下山の下に稲荷社」などが記されているのですが、赤仁田の神明社に合祀されたことにして、目をつぶりましょう。・・木瓜爺ここで凄いオオボケをしているのです。黙っていれば分からないことなのですが、歩いている53号という都道、靑梅からの「成木循環」という都バスの路線なのです。此路を成木市民センター(図書館と同じ場所にある)に向かっている最大の理由は、「成木循環のバスなら、一時間に一便はある」ということなのです。「疲れたら、バス停を見つけて待っていればよい」と考えていたのです。そして、時間によっては、「河辺駅北口行き」というのが、この路を歩いている木瓜爺の背後から走ってくるということも、よーく分かっているつもりでした。所が、成木四のバス停に着いたとき、そこに書かれたバスの時刻を見ると、時刻表に記載された時間に間に合わなかったのです。3分前に発車! と思い込んだ馬鹿な木瓜爺です。・・・分かりますか?この馬鹿さ加減・・・つまり、3分前にバスが来ているなm36-16-20 F5434らば、歩いていた木瓜爺を追い抜いていったはずなのです。追い抜かれた覚えはないのです。つまり、バスが遅れていると考えるのが正しいわけですね。

それなのに、残念、もう少し早く歩けばよかった・・次の便は約50分後だから、「新福寺」まで行って、湧水の確認してくるか・・と、歩き出してしまいました。市民センター前の交差点まで行って横断歩道の信号を待ちながら、ひょいと振り返ると、「河辺北口」行きのバスが・・・ここで、やっと気が付きました。バスは行ってしまったのではなくて、遅れていたのだ! 気が付いた時には、バスは出発してしまっていました。

新福寺の本堂裏の「湧水」を確認して、ブログの追記補充は出来ましたが、昼飯のあと、一時間過ぎると、眠くなることと、頭の回転がおかしくなることもよく分かりました。こういうのは、どうやって再発防止を考えれば良いのでしょうねえ?

明日からは、「越生散歩」の続きに移ります。

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