2016/11/10: 越生散歩;木瓜爺撮歩88-52-3 長昌山 龍穏寺〔3〕 (No.2860)

〔3〕は「本堂、経蔵そして道灌の墓」と、云うことになります。タイトルが長すぎるので、冒頭に移しました。
「新編武蔵風土記稿」に書かれたお話というのは、龍穏寺の前の山の天狗様のお話。この前の山の名前は、昨日のHPの記事では「愛宕山」という文字がありましたが、「新編武蔵風土記稿」では「羅漢山」として書かれています。『羅漢山 龍穏寺門前の山を云相伝ふ 昔此地に僧五人すめり いかなる魔心を生せしにや 此山に登り行を修して 終に天狗となり 折りにふれて土人を悩ましける 其比(頃?)の住僧これを祈り五人の羅漢と崇(あがめ)けるにより解脱を得たりと云ふ 故に羅漢山とよふとそ 今は老松数十株並び立て陰森たり かの天狗の棲し比のならはしを守て 今に至るまて杉樹の杖を伐りとることを禁す (以下略・・ちょっと判読困難なところあり)』これとよく似た話が、相模国の大雄山最乗寺の「道了尊」にもあると書かれています。

「龍穏寺」については、実に5頁半の記述があります。『龍穏寺 曹洞派の大僧禄にして関東三ヶ寺の其一なり 長昌山と号す』に始まって、以前は門外の小名堂沢にあった「瑞雲山」で、現在の場所は深い淵で蛟竜が住んでいた・・というところから始まっています。昨日書いた伝説が収録されているわけです。そのあと歴史が記述されていますが、ざっと読んだところでは、HPに書かれた歴史とほぼ同様ですから、読みやすいHPの方で知識を得て下さい。それらのダイジェスト版が、この説明板です。m88-52-34 F3966

関東三大寺というのは、幕府の指導で宗派統制のために定められた「関三刹」を意味します。下野国の大中寺、下総国の総寧寺、そして武蔵国の龍穏寺です。総本山永平寺の住職は、この関三刹の住職経験者によると決めたのです。幕府の宗教介入ですね・・

本堂に行く前に、太田道灌が立っていました。道灌自身が越生に住んだわけではないようですが、道灌の父、太田道真が、隠居所を越生に作りました。m88-52-35 F3967そして、道灌が謀殺されたあと、菩提を弔うために、自分の隠居所を寺にします。そんな関係もあって、この「龍穏寺」には父子の墓と称する供養塔が作られています。最後に寄ります。向こうに見えるのが本堂です。m88-52-36 F3969

 

本堂は更に一段高い場所にあります。石垣の下には「心の池」がありますが、「心」の形は少し崩れているような感じでした。m88-52-37 F3970m88-52-43 F3990

 

m88-52-38 F3972

 

本堂正面に行って参詣します。お釈迦様が居られました。釈迦三尊という形式のようです。合掌一礼だけでは、申し訳ないので、ちゃんと拝みます。m88-52-39 F3973本尊

 

釈迦三尊ですと、「文殊菩薩」「普賢菩薩」が脇佛なのでしょう。

ただ、この「龍穏寺」全体では、本尊的な仏様としては、1.『釈迦牟尼佛』:御本尊
2.『毘沙門天』 :武蔵越生七福神巡り  3.『将軍地蔵尊』:関東百八地蔵霊場(十二)番札所 の三つをあげておられます。他の仏様は、お堂の向かって左の方に居られるようでした。天井も見たかったのですが、此の位置からでは無理なようです。HPには写真が少しあります。

では、太田父子の供養塔にお参りします。本堂に向かって左の方に墓所に行く石段があります。m88-52-40 F3975

是を上がって行くと直ぐです。左右にある五輪塔です。向かって右が「道灌」、左が父の「道真」です。

m88-52-41 F3976 道灌父子墓m88-52-42 F3979
太田道灌は現在の神奈川県伊勢原市にあった「扇谷定正の糟屋館」で謀殺されました。従って、その附近にも墓があります。まず、伊勢原市上糟屋の洞昌院に「太田道灌の墓」があります。道灌は洞昌院で荼毘に付されたのだそうです。、そして別に「首塚」というのが、鎌倉の「英勝寺」にあります。さらに、太田道灌の菩提寺といわれるのは、伊勢原市下糟屋362にある「大慈寺」です。本命は分かりませんが、とにかくこちら「龍穏寺」は「供養塔」と解釈するのが自然です。「道真」のほうは、越生に「隠居所」があったわけですが、「道灌」が文明18年(1486年)享年55歳で暗殺された時、「道真」は幾つだったのでしょうね。さぞ力をおとされたでしょう。道真はその翌々年の長享2年(1488年)に越生で死去しています。ウイキペディアなどを見ると、「道真の墓所は越生の龍穏寺にある」となっているので、この「道真」のほうは、墓なのかもしれません。なお、「新編武蔵風土記稿」には、こう書かれています。『五輪石塔 二、三基立り 其内太田道灌の墓ありと傳ふれと文字も消へたれは いつれか是なるを知らす』 つまり、文化文政の頃にすでに文字も読めなくなっていたのですから、それが見えるようになったとも思えず、後人が適当に決めたのでしょう。「道灌」は殺される一ヶ月前、「道真」が隠居所で催した句会に顔を出しているようです。「道真」は「道灌」の死後、この隠居所「自得軒」の横に寺を作ったようで、それが「建康寺」。この木瓜爺撮歩では、後日登場します。道灌のお話は、「建康寺」の方で、おさらいしましょう。

最後に「経蔵」を見て行きます。「経蔵」は、熊野神社のすぐ上にあります。全体が見にくいので、ちょっと離れた場所から写してみます。

m88-52-46 F4032

こんな建物です。これはナナメ後方から見たことになるのかな? 本体は、中にしまわれているわけでして、下の写真のように六角の収納塔になっていて、これが押せばまわる筈です。

m88-52-45 F3991経蔵

m88-52-47 F3993

この倉庫もちゃんと獅子と貘が守っています。

最後に、「竜神伝説」の説明板を見つけました。

m88-52-44 F3988龍神伝説

明日は、守護神社の「熊野社」にお参りしましょう。

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