2016/11/17: 越生散歩;木瓜爺撮歩88-59 越生山 建康寺 (No.2867)

円通寺から、駐車場の方に戻って、道標を確かめます。「建康寺」に行きますが、「建m88-59-01 F4252康寺」と「最勝寺」の間に「泰雲寺」というお寺がありますので、どういう順序でまわるのがロスが少ないのか、考え考えという所があります。ともかく道路を横断して、「建康寺」を目指しましょう。「建康寺」の傍には、道灌の名がついた場所があります。「新編武蔵風土記稿」を見ると、『太田道灌邸跡』の説明があるのです。歩きながらこれを紹介します。

m88-59-02 F5581

『太田道灌邸跡 今は田圃となり一段四畝程の地にして 建康寺の傍にあり 小名を陣屋と呼ぶ 道灌の別館なとにや 或書云 道真小杉に隠居し明応元年二月二日八十二歳にて卒せしと云 されは道灌にはあらて道真の邸跡なるにや 其の地形前に川をあて後ろに山をうけて要害の地なりと云』。関連してもう一つあります。『馬場跡 陣屋の前 越辺川の向ひにあり 長十間幅五間ほとの所なり 土人の傳へに道灌調馬せし所なりと云 さもあらは古は なを長かりしなるへし』

m88-59-03 F5587浄水センター

この「馬場」だったとする場所に、現在は「越生町第七浄水センター」という建物が出来て居ました。m88-59-04 F5589その横を入ると、「道灌橋」という小橋が掛かっています。「道灌橋」を渡りながら、何気なく右の川面を見ますと、「カワセミ」の姿。あわててカメラを向けたのですが、ピントが合いません。木瓜爺の影に驚いたのか、あっというまに飛び立ってしまいました。残念!

m88-59-05 F5591道灌橋

m88-59-06 F5592 越辺川

 

「太田道灌」については、越生の「山吹の里」を訪ねたブログで、ある程度書いた覚えがあります。24- 越生散歩;木瓜爺撮歩88-32 山吹の里 (No.2664)

この時、道真が築いた「山枝庵(さんしあん)」という砦に触れましたが、龍穏寺から代官屋敷へ行くと書いた道の途中から山に登る道があり、訪れる事ができます。「道真」は「山枝庵」から、隠居して「自得軒」に移り住んだのです。倅の「道灌」の一生m88-59-07 F5598については、大河ドラマにしてくれという要望があり、「建康寺」にも「書名をお願いします」と記入用紙がおかれていました。願いが叶うと、道真ももう少し有名になるのかもしれません。

細い道の傍らに立つ石仏。いかにも、歴史のある場所という感じです。奥の方に「建康寺」の入口が見えて来ました。

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m88-59-09 F5600

 

入口では、お地蔵様がむかえて下さいます。これを入って行きます。

m88-59-10 F5613建康寺

「建康寺」の説明板に「道真」のこともかかれていました。『関東管領上杉家一族の扇谷上杉家の家宰として、関東にその名を馳せた名将太田道真は、息子の道灌とともに江戸城、岩付城、河越城を築いたのち、越生に本拠を移した。ここ大字小杉字陣屋付近が、道真の居館 自得軒の跡地と推定され 太田道真退隂地として埼玉県の旧跡に指定されている。』以下、先日書いた、道灌との最後の句会のことも出ていますね。最後に水車場のことも書かれています。あとで寄りましょう。m88-59-11 F5609

 

小さなプレートの「建康寺」と書かれて、上に取り付けられていました。「新編武蔵風m88-59-12 F5616土記稿」は『建康寺 越生山と号す これも龍穏寺の末山にして 則龍穏第三世僧泰叟開聞す 是は其の頃 太田道真入道が開基に因て開きし所なりと云 又道真の子道灌が開基なりとも 開山泰叟は明応六年十一月四日寂す よりて思うに道灌と云は恐らくは誤りにて 道灌滅亡の後 父道真の建立せしならん 本尊地蔵なり 太子堂 稲荷社』と記されています。

埼玉県の指定という「道真退隂地」の石碑をやっと見つけました。これから、川沿いに進んで、「才車」を見てたあと、寄り道的に「泰雲寺」に行きます。

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