2016/11/29: 越生散歩;木瓜爺撮歩88-66 大慈山 正法寺 (No.2879)

この越生の駅付近は、「新編武蔵風土記稿」の時代には「今市村」です。『今市村は川越城より乾の方 五里を隔て江戸を去こと十五里の行程なり 越生庄高麗領に属す 当村は越生鄕十六村の本村にして 古より市場となせし所なれは 越生の今市とも唱へ 又越生とのみも呼へり・・・』と書き出されています。寺社の記述では、一番多いのが「松渓山 法恩寺」で、実に12頁。次に出てくるのが「正法寺」で12行です。当時観音堂、閻魔堂、鐘楼、天神社などがあった事が分かりました。

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「高取山」への登山道が分かれ、林の中を進んで行きます。やがて、山門のほうに下る道と、境内に入ってしまう道に分かれましたが、うっかり境内に入ってしまう方の道を選んでしまいました。それでも、坂を下った所に、寺名を書いた石碑はありました。m88-66-02 F5901

 

いきなり寺の真ん中に行ってしまったので、帰って説明しにくい・・もう一度山門前に出て、写真を並べて行きます。まず、「正法寺」の説明板を見ましょうか。「臨済宗 建長寺派」のお寺です。火災で記録が失われているけれど、鎌倉時代の創建で、足利尊氏が貞和年間(1345-1350年)に中興。m88-66-03 F5905

本尊は南北朝時代の木像「正観音坐像」。本堂脇に「閻魔堂」がある。と読み取りました。山門のほうから入る道ですと、こう見えてきます。m88-66-04 F5926正法寺

 

m88-66-05 F5925石段の所から、山門を見上げます。「正法禅寺」の額は、「山岡鉄舟」の書と書かれていましたね。力のある、素晴らしい書です。「新編武蔵風土記稿」の頃は、此の額はまだ無かったわけですね。

『正法寺 大慈山と号す 天正十九年 寺領十石の御朱印を附せらる 臨済宗鎌倉建長寺の末なり 寺僧の伝えに開基は将軍尊氏にて佛壽禅師を開山となせり佛壽は文和三年二月十八日化すとす 按に僧石室か撰へる鎌倉長壽寺開山古先印元和尚の行状に武州正法を■建すとあり 正法と云は當寺のことにや もし當寺ならんには 佛壽を開山とすることいかかはあらん 或は印元創せしなれと 已に其処にちらすして佛壽を請て開山とせし知へからす 又寺宝に心経の木版あるによれは古は真言宗なりとしにや 本尊十一面観音を安す 』

■は木瓜爺に読み取れなかった文字です。後半よく分からないのですが、開山についての疑問が沢山の文字を使っています。越生教育委員会は、文和三年(1354)年は、中興と位置づけたようですね。多分寺宝の「般若心経木版」(中国からの伝来品と思われる)などの年代考証からの結論でしょう。本尊が「十一面観世音」から「正観音」に変わったのは、明治17年に火災にあった為(後述)でしょうか?

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「六地蔵」は新しい物でした。下の写真は、最初境内に入って来た時写したもので、本堂の横から客殿のほうを写しているようです。左が本堂かと思ったのですが、説明にあった、本堂脇の閻魔堂というのが、ありません。これは何だったのか?客殿ですかねえ??

 

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越生町のhttp://saitama.iro8.net/ogose/syouhouji/ というサイトを見つけたのですが、これでは、閻魔堂らしきお堂の写真を山門と説明したり、わけが分かりません。ただ、こういう記事がありました。寺のどこかにある説明板の内容です。先ほどのものとは異なります。『大慈山正法寺(だいじざんしょうほうじ):正法寺は、鎌倉建長寺の末寺で、足利尊氏の開基と伝えられている。代々建長寺の高僧の隠居寺とされ 、特に活仏と言って、死期を悟った僧が生きながら食を断ち、仏になる聖地とされた。これを「入定」(にゅうしょう)と言い、寺域は「入定場」と いう地名になっている。山門の後には、それを物語る「入定塔」も残され建長寺の正法寺古図にも記されている。
明治4年、越生で初めて学校がここで開校され正法寺の学校と呼ばれた。この学校ではそれまでの寺子屋から一歩進んだ教育を行なっていたことが 明治10年の卒業者名簿を刻んだ碑に記されている。
明治17年に火災で堂塔を失い、その後本堂を復旧した際、応永戦乱(1399年)で破壊されたと みられる多数の板碑の破片が出土している。』

下の写真は、先ほどの本堂のような建物の横で、九十度向きを変えた写真。閻魔堂はこの上かな? と思ったのです。

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上がって見ると・・・

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m88-66-12 F5913「大慈山」の額。あれえ? これが本堂かな? 混乱です。「正法寺」のホームページにも境内の案内が付いていません。となりに「閻魔堂」があれば、これが本堂なのだ・・・m88-66-14 F5917閻魔堂ありました! 大黒天のパネルボードもあります。かって、龍穏寺の座禅堂だったという説明を裏付けるように、「座禅窟」の額が懸かっていて、中に閻魔様が居られました。ガラス越しの映像です。m88-66-09 F5920閻魔堂

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・では、先ほどの本堂に見えた立派なお堂は何なのだ?

学校に使われた場所か? いや、それは焼けただろうなあ? 閻魔堂の前に立つ阿弥陀様らしき梵字碑の前で考えこんでいたのですが、はっと気が付きました。列車に乗り遅れる! 探求はまたにして、小走りに駅に向かいます。

というわけで、またまた尻切れトンボになってしまいました。

明日は雑談ですが、12月1日からは、観光地ではない場所を歩きます。木瓜爺意外は歩きそうにない場所ですが、歩いていると、老人ご夫婦の散歩姿をあちこちで見かけました。多分、木瓜爺撮歩も多少は役立つでしょう。

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