2017/01/18: 府中市散歩;木瓜爺撮歩96-20-2 龍門山 等持院 高安寺 (No.2929)

こちらの山門は、四天王門の構造ですが、ちょっと変わった顔ぶれです。前面は仁王さんですが、背面が「地蔵菩薩」と「脱衣婆」。どういう考えで作られたものか、よく分かりません。楼門の額には、「龍門山」・・これは、「新編武蔵風土記稿」に書かれた「本堂」の記述に出てくる額でしょう。m96-20-15 F5089

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今回は、金網に邪魔されて、上手く撮せませんでしたので、2011年の写真も動員します。下の木鼻部も変わっているでしょう。多分天女だと思うのですが・・・m96-20-15B IMG_0535

 

m96-20-15C-IMG_0538天井板にも何か書かれていました。背面の方はどうだったかな? 古い方の写真は、キャノンG9で撮したものでした。m96-20-15D-IMG_0541

 

何だか分からないですねえ?確か地蔵菩薩の足元にいろんな人が集まっているような形m96-20-15E-IMG_0540でした。もう一つは「脱衣婆と鬼」です。なんとも、恐ろしいことです。

この山門、なかなか面白いのです。ただ仁王様達を撮すのは、細かい網目が強敵ですので、大口径レンズよりも、小さなコンデジのレンズが有利かも知れません。最近の小さなWEBカメラが良いかも・・本堂の方に行きましょうか。右側に「利生閣」という建物があります。地図上では「高安寺」とは別に卍マークが書かれていますから、別院のような存在でしょうか?

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足利尊氏が「祈願所」を作った時に「安国利生」を祈願したといいますから、その時の「利生塔」が発展してこうなったのかも知れません。府中観光協会の頁に何か書かれて居ないか? 『室町幕府の将軍足利尊氏(1305-1358)が、元々この地にあった市川山見性寺を再興し、龍門山高安護国禅寺と号したのがはじまりとされ、尊氏が改名する前の高氏から名づけられたとされています。それ以前の寺は平将門を討ち取った功績で武蔵野守となった藤原秀郷の館跡であったと伝えられています。尊氏は国と人々の平和を願って全国に安国寺や利生塔を建てました。武蔵国の安国寺が高安寺です。しかし鎌倉時代末期から南北朝の戦乱の時代には、崖の上にあったためこの寺はしばしば合戦の本陣となりました。曹洞宗。現在の本堂は享和3年(1803)、山門は明治5年(1872)、鐘楼は安政3年(1856)の建立で、東京都選定歴史的建造物に指定されています。』・・・利生閣の記述はありませんね。

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こちらには、珍しい「道元修行像」がありました。精悍な顔つきの若い「道元」さんです。『道元禅師は、鎌倉時代の1200年(正治2年)1月26日(陰暦では1月2日)に京都の生まれ。父は内大臣久我通親(こがみちちか)、母は摂政関白藤原元房の女(むすめ)伊子(いし)といわれています(諸説あり)。3歳の時に父を亡くし、8歳で母の死にあうという悲しい体験をとおして世の無常を強く感じられ、その心を仏の道へと向かわせた。14歳で、比叡山の座主公円僧正について剃髪し、出家得度。比叡山では天台教学を中心に学ぶも、経文にある「本来本法性・天然自性身」という文言に大きな疑問をいだき、その解決のために園城寺(三井寺)の公胤僧正を訪ね、そのすすめにより建仁寺へ行き、栄西禅師の高弟である明全和尚に師事。24才のとき、道元禅師は明全和尚とともに宋(中国)に渡り、天童山の如浄禅師に弟子入り、坐禅修行に励まれます。やがて悟りの境地に達したと認められて、帰国。帰国後直ちに、坐禅の心がまえや作法などについて書かれた『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著され、その後『正法眼蔵(しょぼうげんぞう)』の最初の巻である『弁道話』を著されます。・・・以下略(実は、このあとが、大変だったのです)』という略歴ですから、この像は、24才頃の姿かな?m96-20-18 F5099

 

奧に見えるのが本堂です。右手の方に鐘楼があるのですが、これが「時の鐘」だったと思うのですが・・・m96-20-22-IMG_0545m96-20-23 G_0546

 

やはりそうでした。現在は、機械が撞いてくれるらしいですね。

本堂前に進み、合掌一礼。「新編武蔵風土記稿」の記述を書きます。『本堂 十二間半に九間 東向 等持院の三字を偏す 筆者は唐山の程 赤城なり 外に龍門山と題せる山門の額あり 雪山の筆 今山門廃して別に撤去す』。山門が作られ額も復活していました。m96-20-20 F5104

m96-20-19 F5103 本堂

弁慶の井戸は、結構距離が離れています。墓地を抜けて、台地の下に降りて行きます。一応写真で紹介しておきましょう。蓋をされている四角い井戸です。「新編武蔵風土記稿」では、『弁慶井 本堂の西北にあり 武蔵坊弁慶この所に住せし時 この井の水を以て大般若経を書写せしゆへに名つけしなりと云いつたへり』・・この「大般若経」は、谷保村の安楽寺にあるのが”いとおかし”と書いています。さらに、「高安寺」の寺宝には「兜の鉢一頭」がありこれが弁慶井から出たものと書かれています。また、「弁慶自画肖像一幅、同木像一体」があるが、寄贈された物であるとも書かれています。「新編武蔵風土記稿」の当時としては、義経弁慶がある期間ここに住んでいたとされていたようです。現代の解釈は次のようになっているらしい。m96-20-25 G_0557m96-20-24 G_0555

 

頼朝の怒りに触れた義経が、腰越で足止めされ、面会できずに京都に戻る途中で、立ち寄ったのが見性寺(高安寺の前身)。義経は、弁慶らと赦免祈願のため大般若経を書写しますが、その時に弁慶が清水を汲んだと言われる井戸です。m96-20-26 G_0558もう一つの名所(?)「秀郷稲荷」は、この写真だと思うのですが、情けない事に、2011年の事はもう忘れています。今回は、此所までは入りませんでした。山門の脇に、「水子供養の千体地蔵」が並んでいました。m96-20-21 F5110

「高安寺」を辞して、次は時宗の寺「長福寺」に行きます。

おっと、taji1325ブログとの連携を忘れていました。昨日のリンクで二日さかのぼって頂けばよいのですが、一応初日のほうとつなぎます。1月24日 高安寺Ⅰ 写真は間違いなくtajiさんの方が綺麗です(木瓜爺ブログは、残容量の関係で、圧縮しすぎています)。

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