2017/01/21: 府中市散歩;木瓜爺撮歩96-22 中河原・庚申神社? (No.2932)

武蔵国国府であった「府中」、戦の歴史もあります。国司 藤原秀郷は平の将門の乱を鎮めますが、この府中から出陣している訳です。ただし、この時の戦場は、あきる野市の奥の方から始まっているようです。少し後に源頼朝が関東に入ったとき、東国8ヶ国の軍勢を招集して「府中分梅河原」に集めたと伝えられています。此所までは、戦いではなさそうです。本格的戦闘は、鎌倉幕府の末期、新田義貞の鎌倉攻めです。元弘三(1333)年、新田軍は総勢二十万とも言われる大軍で、久米川の合戦、小手指原の合戦と連勝して、府中に殺到します。この敗報に執権北条高時は弟の北条泰家に10万の兵を与えて分倍河原に出陣させ、久米川・小手指からの退却軍を勇気づけました。そして、分梅での戦いは、幕府軍の勝利。新田軍は狭山まで退却します。この時、国分寺などを焼き払って逃げたようです。 新田側に応援に駆けつけたのが、三浦義勝、彼は勝った幕府軍が油断しているだろうと、夜襲を提案し未明に奇襲をかけます。そして、幕府軍は關戸あたりで壊滅し、鎌倉に逃げ帰るのです。これが、「分梅河原の合戦」なのですが、此の後、建武二(1335)年、永徳元(1381)年、永享十m96-22-01 F6659 中河原(1438)年、康正元(1455)年にも、分倍河原付近を戦場とする戦がありました。ですから、合戦に伴う死人も沢山出ています。そういう人々の供養塚なども沢山あっただろうと思われます。

2017/1/12 木瓜爺は京王線「中河原」駅を出ました。ここから、「分倍河原」駅まで歩いて見ようと思い立ったのです。ただ、地図を確認すると、寺社は直角三角形の直角をはさむ二辺にあるのに、「分倍河原合戦の碑」は、長辺の真ん中にあるのです。これは、切り離したほうが良さそうだなあ・・になってしまいました。そうそう、「分梅」というのは昔の表示、最近は「分倍」という文字をつかっています。

m96-22-02 F6658庚申塔神社駅の近くに「法音寺」という寺がある筈です。ありそうな方向に向かって歩き出した木瓜爺の目に「鳥居」が見えました。あれ? 地図にはない神社です。お稲荷さんかなあ? 写真で、走ってくる自転車から、小さな鳥居であることは分かりますね。本日最初の神社ですから、まずは交通安全の祈願でもしましょうか・・と、近づいて行きました。説明板の石碑も立っています。m96-22-03 F6661

あれれ? 庚申塔の説明ですよ・・m96-22-04 F6663

お堂の中におかれているのは、「庚申塔」なのです。つまり、ここは「庚申神社?」m96-22-05 F6664

説明板によると、通常庚申塔は「西南西」に向いて建てるのだが、此所は真西に向いているので、「西向庚申塔」と呼ばれて居るのだそうです。庚申塔が、西南西向きというのは、木瓜爺知りませんでした。実際には、そんな法則を感じたことはありません。これから注意してみます。

m96-22-06 6665

m96-22-07 F6666

一つは文字碑、もう一つが、これは何様でしょうか? 「青面金剛」には見えないのですが、手は八本ですね。ははあ、頭の上は髑髏のつもりか・・そうすると、「青面金剛」で良さそうです。

「道祖神」を祀った「道祖神神社」はありましたが、庚申塔に鳥居を建てたのは、始めてみました。調べて見ると、僅かですがそういう例が存在していました。最初から珍しい物に出合えて、さい先良さそうです。「法音寺」も直ぐ見つかるでしょう。m96-22-09 F6668

「発見!」 あの屋根ですよ・・きっと。

広告
カテゴリー: 寺社, 散歩 パーマリンク

2017/01/21: 府中市散歩;木瓜爺撮歩96-22 中河原・庚申神社? (No.2932) への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 2016/03/25: 聖蹟桜ヶ丘散歩;木瓜爺撮歩96-66 關戸古戦場跡と時宗の「延命寺」 (No.2996) | Choi-boke 爺ちゃん

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中