2017/02/20: 府中市散歩;木瓜爺撮歩96-46-1 八幡山 廣徳院 本願寺〔1〕 (No.2962)

本願寺の山門は南側にあります。「武蔵野台」駅からですと、割合分かりやすいでしょう。m96-46-00 F7355昨日書いた「車返」についての説明碑が寺の前にありました。

 

是によると、昨日の木瓜爺の推測は、全く大外れでした。『・・、地名のおこりは、本願寺の縁起に書かれていて、源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折、藤原秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉に輸送中、当地で野営したところ夢告があり、此の地に草庵を結んで仏像を安置し、車は元へ返したことに由来する』と、書かれています。この記述は、境内にある「本願寺 縁起」に書かれたこととほぼ同じでした。m96-46-01 F7358 本願寺山門

 

ここが、山門です。門前にいろいろ並んでいます。m96-46-02 F7365

 

「新編武蔵風土記稿」では『(車返村)本願寺 境内除地 八段六畝二十歩 八幡山廣得院と號す 村の中央にあり 浄土宗 喜多見慶元寺の末 御朱印寺領十一石四斗餘を附せらる 本堂七間四方南向 本尊三尊彌陀 木の坐像長二尺七八寸 観音勢至立像身上に同し 開山教譽良懐元亀四年六月十一日寂 或云永正中良懐の起立 もし然らは寂年と遥に隔てり 恐くは永禄の誤か 縁起に總州の郷士大久保彦四郎某といへるもの 天正十三年丙子年この地に来り 開運薬師の舊跡に就て一宇を建立し 江州安土浄嚴院貞安の弟子良懐鎌倉光明寺にありしを 招て開山となし 併せて武具を埋めて塚をきつけりとあり 按に天正十三丙子とあるは支干あはす必誤字あるへし 良懐寂年元亀四は即ち天正元なれは 起立はいつれそれより以前なるへし 一説に當寺は開山より三世のm96-46-03 F7364頃まては 纔かの庵室なりしとそ 天正二年宮崎久兵衛尉泰重なるもの造營を加へて 始て一宇の寺院となし 八幡山廣得院とそ號しける 泰重は信州下伊奈の人にて この地に来り住せり 後召出されて旗下に仕ふ 今の宮崎多膳等が鼻組なり 當山に泰重の墳墓あり 五輪の石塔なり 法名廣得院殿長譽月山道鑑居士 慶長四年八月九日歿す 飛田給村と當村との間 甲州街道の南方石薬師原といふ所にあり 是その屋舗跡なりそぞ。』 だいぶ異なる事が書かれています。

「本願寺」の石碑の脇の「庚申塔」はなかなかのものですね。m96-46-04 F7351

その後ろの方に置かれたお地蔵様方です。山門には、「八幡山」の額が掛かっていました。m96-46-05 F7350

これは、昨日の「八幡神社」の別當寺だった為でしょう。山門をくぐります。m96-46-06 F7346この時目に付いたのが、本堂の屋根についた「葵」の紋です。この理由は、境内にあった、「本願寺縁起」を読んでわかりました。m96-46-07 F7344

『浄土宗八幡山廣徳院本願寺
當山の起源は、その昔源頼朝の奥州征伐の折彼地よりもたらされた藤原秀衡の守本尊と伝えられる薬師如来をまつったことに始まる。その後、総州の人大久保彦四良兵火に焼かれたお堂を再建し、永正十三年(一五一六)鎌倉光明寺の僧、教譽良懐上人を迎えて中興開山となし一寺の形態を定む。(彦四良塚今なお東部出張所南に現存す)
徳川家康の家臣宮崎泰重、當地の領主となり當山四世真譽圓良上人に帰依し、天正二年(一五七四)境内および堂宇を寄進し寺を現在地に移転させ、この時はじめて當寺を八幡山本願寺と呼称する。また将軍塚より代々十一石四斗の朱印状下附され、併せて葵紋の使用も許され、以後周囲の発展と歩調を共にし現在に至る。現本堂は昭和四十七年五月落慶し、中に本尊阿弥陀如来をまつる。
境内の薬師堂には旧地より移された車返開運薬師如来が安置され、御名のごとく旧車返の地名の由来と深い因縁に結ばれている。』m96-46-08 F7341m96-46-09 F7339

 

「三界萬霊供養塔」と「六地蔵」までで、くたびれてしまいました。長文を入力した所為でしょう。続きは明日に・・・

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